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日本移民108周年記念=囚人の署名 平リカルド著 (翻訳)栗原章子=(32)

 パウリスタ鉄道の列車はリオからの電車サンタクルス号のように快適な旅が楽しめる代物ではなかった。一等車だけが快適につくられていたが、一両か多くても2両の車両しかなかった。ほとんどの車両は木製で、道中あまり揺れなくても、自然と首や肩が痛くなるのだった。
 兵譽はジュリオ・プレステス駅まで歩いて行くことにした。映画館、レストラン、床屋、クリッペルのような有名な洋品店が建ち並ぶサンジョン大通りを歩く、ちょうどよい機会だと思ったのだ。
 映画館の前の看板には上映中の映画のあらすじが書かれていた。兵譽はリチャード・ブルックスの名作「熱いトタン屋根の猫」の当時売れっ子の美しいハリウッド女優、エリザベス・テーラーの写真に魅せられてしまった。しかし、彼は美しい女優のブロマイドを購入するにはあまりにも内気過ぎた。
 一九五〇年代も終わり頃のサンジョン大通りは、人通りが多い賑やかな通りで、まるでファッション・ショーを見ているようだった。男性は身体にぴったり合ったスーツを纏い、ヨーロッパ風の特別あつらえの山高帽を被っていたし、女性は身体にぴったり合った服やスーツを着て、ツバ広の帽子を被っていた。日傘も見られた。みんな肩に斜めに差し、上品そのものだった。
 道の角々に点在していた飲食店からは油の強い臭いがしていた。兵譽が驚いたのは、マレシャル・デオドロ広場を過ぎてすぐの所に、漢字とローマ字で書かれた日本料理のレストランがあったことだった。
 その時間、十一時頃だったが二人の客しか入っていない。一人は東洋人風であり、もう一人はブラジル人のようであった。広いレストランではなかったが、テーブルが10ほどあった。その頃から既に日本料理は高いという風潮があり、値段の高さに兵譽はレストランに入ってみたいという気持ちを抑えた。
 どんどん歩き、ドゥッケ・デ・カシアス大通りにきて右に曲がった。そして、プリンセーザ・イザベル広場を通り、堂々した構えのジュリオ・プレステス駅に着いた。現在ではジュリオ・プレステス駅の建物は、サンパウロ州立管弦楽団OSESPフィールハーモニー楽団の活動の場となっている。
 ジュリオ・プレステス駅は、一八七二年に創立され、サンパウロ州の西部や東南部のコーヒーの荷や北パラナのコーヒーの荷を運搬していた。一九三八年に改築されルイ15世フランス風の建物に様変わりした。モジアナ線に乗るためには広い室を通り、プラットホームに向かわなければいけなかった。
 モジアナ線はジュンディアイ、カンピーナス、リメイラを通り、ミナス州との境にあるサンタ・クルス・ダス・パウメイラスまで行っていた。そこからは、ノロエステ・パウリスタの支線に乗り換えなければいけなかった。
 この支線の汽車はリオ・クラロ、オウリニョス、バウル、ガルサ、マリリア、ツパン、バストス並びにアダマンチナを通っていた。乗り換えの待ち時間は貨車の荷物を移し変えるたりするのに長時間を費やしたし、列車そのものも六〇キロのスピードしか出ないものだった。1日がかりの旅であった。
 兵譽はガルサとバストスの二つの町に寄り、昔の仲間や拘置所の仲間と再会した。しかし、家族は探そうともしなかったのである。
 彼は昔の仲間の暮らしぶりを知り、まだ畑仕事に耐えているのかを自分の目で確かめたかったのだ。そして、多くの者が農作業を捨て、他の分野、例えばレストラン、パステス屋、洗濯屋、青空市場の商店主に仕事を変え、頑張っていることを知った。
 変化はあらゆる所に見られた。兵譽がブラジルに来た当時は普通だった、日本移民が家の中では和服を着るといった習慣もなくなっていた。日本人は乗用車に乗り、トラックを使い、会計事務所や銀行の支店などで働いていた。二世たちはブラジルの習慣にすばやく溶け込んでいるように見えた。

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