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日本移民108周年記念=囚人の署名 平リカルド著 (翻訳)栗原章子=(36)

第15章  出稼ぎ

 兵譽が夢見ていた日本への帰還は、一九八〇年代を境に、日本の経済成長に伴い工場などでの労働者が不足したために起こった。日本の経済成長が生んだ現象だ。「デカセギ」という言葉は、「出る」と「稼ぐ」を複合してできたものだ。
 日本の法令は日系人の第3世代(三世)までの日本滞在を許可したから、秋雄の息子や孫たち、幾人かの藤子の孫たちも出稼ぎとして日本へ行った。二〇〇五年、法務省は正式に日本に滞在しているブラジル日系人の数を30万5千と発表した。ブラジルの工場で働くより、ドル払いで二倍も三倍も高くなる給料は、疑う余地もなく大きな魅力であった。
 「かさと丸」移民や他の移民船でブラジルに到着したほとんどの人々がそうであったように、彼ら、デカセギは経済的に自律した生活が営めるだけのお金を貯め、ブラジルに帰国し、マイホームを買い、事業を起こす事を夢見ていた。しかし、歴史は繰り返すように、みんなが皆成功したわけでもなかったし、ブラジルに帰国したわけでもなかった。
 秋雄の娘、サンドラは二人の娘と三人の甥を連れて、日本へ出稼ぎに行った。彼らは2年間、日本で働き、二十四カ月後に家族訪問のために帰国した。彼らの日本での毎日は努力と規律正しい生活であった。朝五時に起きて、朝食をとり、まだ暗いうちに工場に出かけていた。九時に最初の休憩をとり、おやつを口にしていた。十二時に一時間の昼食休憩があり、三時にまたおやつ休憩があった。五時に仕事を終え、群馬の賃借アパートに帰っていた。このような判で押したような暮しを月曜日から土曜日まで、時には、日曜日まで送っていたのである。
 こうして貯めた金で、彼らはブラジルで農園を買い、それを貸して、念願のマイホームも建てることができた。真面目な労働者だった彼らは日本へ何度も出稼ぎに行った。前の勤め先での推薦もあり、他の工場で簡単に雇ってもらうことができた。そのように日本とブラジルの間を行ったり来たりしていたサンドラのデカセギ人生も、シャーガス病と診断されて、終りを告げることになった。
 
 
第16章  再会

 英新とその妻のカンディダは一九九一年に日本へ行き、出稼ぎしていた何人かの家族に会うことができた。善次郎の末息子が運よく、息子の平リカルドから秋雄と藤子の消息を知らされたからという経緯があったのだ。
 一九七一年に、タツアペー区にあるマルチン・ルター・キング高校で勉強していたリカルドは同級生から「平」という苗字の家族を知っていることを聞かされた。何日か後に、その同級生は秋雄の六人の息子の一人、ミツオに引き合わせてくれた。
 一九七四年、サンパウロ市の東部にあるヴィラ・マンシェステル校の文学部の学生だった頃、リカルドは父親が義理の兄でトラックの運転手の山崎重男が交通事故に巻き込まれて亡くなったことをラジオで知ったと伝えられた。その時、初めて父親が義理の兄のことを話したのだった。
 学校の休みが始まるのを待って、リカルドは彼の友人のルイス・ダンタスを誘って、サンパウロ州東部地にあるツパン市に直行し、ラジオ局の助けを借りて親類を探していることを訴えた。
 放送があったその日の夕刻、女の人の声で藤子と重男を知っているとの連絡があった。連絡して来たのは何と、夫婦の息子の一人ジョルジェ・マサオの妻であった。このようにして、藤子と重男夫婦がプレジデンテ・プルデンテに引っ越したのを知ることができたのだ。
 親戚との再会でリカルドは重男が生きていることを知った。ニュースは早とちりのリポーターが事故現場から重男の名前入りの書類が出てきたことで、勝手に死亡者リストに名前を組み入れてしまったのだと分かった。
 このように両親の過去を知らない家族を不思議に思う者もあろうが、日本人の間では、過去は話したがらない風潮があり、特にあまりいい思い出でない場合には尚更である。

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