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日本移民108周年記念=囚人の署名 平リカルド著 (翻訳)栗原章子=(37)

 例えば、長崎在住のジャーナリストの平田サエコなどは二〇一〇年二月になって、はじめて父親の平田研之(けんし)が二重の被爆者だった事実を知らされたのだ。父親は九十一歳になっていて、聞かれても原爆に遭った当時のことを話したがらなかった。
 まだ青年であった研之は広島で被爆し、長崎に妻の遺骨をもっていったのだった。彼は再婚し、過去のことには触れることなく、普通の家族生活を築くことに精一杯だった。幸運にも、彼も子どもたちにも放射能の後遺症は見られなかった。日本人が自己の感情を他の人に見せないのは、自分が抱えている問題やトラウマに他の人を巻き込むことを避けるための心遣いと考えることができる。
 二〇一一年三月に起きた大震災では、日本は震度9・0°の地震にみまわれ、日本中が揺れた。その後、日本の東北地方では大津波に襲われたが、国民が騒ぎたてたり、大混乱を招いたりすることはなかった。大震災の被害者達は列になって救助を待った。彼らは救助隊が組まれるのを知っているし、状況が収まるまでは救済を受けることをわきまえ、納得しているのであった。
 三万人以上の死者や行方不明者を出したこの大震災は、第2次世界大戦以後の原子力災害で最大規模の被害を生んだ。地震と津波による福島の原発事故である。この原子力による危機は、かつて、昭和天皇がはじめて玉音放送をしたように、天皇陛下をテレビカメラの前に立たせた。国民に平静を保って、将来への希望を持つように訴えた。ただそれだけであった。
 テレビ画面に映し出された天皇陛下は終始平静を保っていた。テレビは災害にあった家族の再会も見せていた。津波のため一週間別れ別れになっていた母と娘が宮城県の避難所で再会したのを映し出していた。マスクをした二人は互いに顔と顔を合わせながら、控えめに泣いていた。二人は隣り合った位置にいたが、抱き合うことはしなかった。これが日本人らしい振舞いなのであろう。

 
第17章  考察

 兵譽の長男、エリオの結婚は破局をむかえ、彼は別な女と暮らすために家を出た。元妻のアダルジザと娘のアドリアナを父親の元に残して出て行ってしまったのだ。兵譽(へいたか)はまた家族が昔のようにばらばらになってしまうのではないかと心配し、その時なって、彼は両親を捨てたことを深く悔やんだ。
 エリオがいなくなっても、相変わらず、隣近所の人々はタイラ家を訪れていた。兵譽の孫を遊びに誘いにくる子どもたち、近所のおばさん連中は8時のテレビドラマについて話にくるか、料理のレシピを交換にくるかして毎日のように出入りしていたし、リンコンが参加していたサッカーチームの選手たちも来ていた。しかし、そんななかで兵譽は黙って、バミューダーパンツをはいて、一人テレビを見ていた。
 兵譽は、蒸し暑くて二基の扇風機もあまり役に立たない晩、体調を崩した。汗をかき、熱を出していた。今度も病院に行くことを拒絶し、前に肺炎の初期だと診断された時に処方された薬をまた飲むのだけは承知した。
 何日間も安静状態がつづいた。兵譽はトイレに行くか、食事をするか、何分間かテレビを見る時だけ、ベッドから出てきていた。ほとんど一日中ベッドで寝ているばかりだった。そのような時に息子のエリオの死について知らされた。
 警察の事件簿には「未解決」と記された事件は、エリオが新しい女と同棲していた家で起こった。ドアのノブは壊され、家中引っ掻き回され、床には壊れた食器類の破片が散らばっていた。遺体はベッドの上に横たわっていた。同棲していた女は、エリオが発作を起こし、全てを壊し始め、最後は動けなくて倒れてしまったのだと説明した。
 警察は毒殺の疑いで調べたが、何も証明することはできなかった。兵譽は息子の遺体を見に行ったが、何も言わずに帰り、ベッドにまた横になった。そして、長男の通夜にも葬式にも参加しなかった。

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