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ブラジル独立記念日特集=先駆イタリア移民の特徴探る=南部と聖州で異なる移住形態=農園スト破りで日本移民?=学術振興会第1回ワークショップ

1928年、イタリア人入植地、南大河州カシアス・ド・スルの移民家庭のフェスタの様子(See page for author [Public domain], via Wikimedia Commons)

1928年、イタリア人入植地、南大河州カシアス・ド・スルの移民家庭のフェスタの様子(See page for author [Public domain], via Wikimedia Commons)

 日本学術振興会(JSPS)とサンパウロ州立総合大学(USP)は共催で「第1回科学交流国際ワークショップ」を8月30、31日にUSP3学部で実施した。31日午後からは法学部が会場――まさにその時間にジウマ大統領罷免が上院で可決、同法学部出身の13人目の大統領が誕生した瞬間だった。ミッシェル・テメル氏は1963年の卒業生だ。同法学部のあるセントロでは無数の花火が打ち上げられ、通りを行く車の多くがクラクションを鳴らして歴史的な日を喜んだ。ブラジル独立記念日特集では、同ワークショップの北村暁夫・日本女子大学教授講演「ブラジル南部におけるイタリア移民」の概要を紹介する。現外務大臣ジョゼ・セーラ、イタマル・フランコ元大統領、ルイス・フェリッペ・エスコラリ元サッカー代表監督、F1レーサーのフェリッペ・マッサら各界の錚々たるの有名人がみなイタリア系だ。

イタリア移民について講演する北村教授

イタリア移民について講演する北村教授

 世界に散らばったイタリア移民は延べ2700万人もいる。ブラジルは移住先として6番目、130万人で全体の約8%を占める。1番目は米国で30%、2番目はフランスで16%、2番目はアルゼンチンの13%、3、4、5番目はスイス、オーストリア、ハンガリーが同じ9%。それに次ぐ。
 ブラジルへの外国人移民は1888年からの35年間に297万人を数えるが、イタリア移民はその44%を占め、圧倒的な多さを誇る。
 伯国にきたイタリア移民の出身地としては北東部のベネト県が最多。1900年以降は南部出身者も増え、最終的には全国からまんべんなく向かった。
 入植方法としては大きく分けて「サンパウロ州にコロノとして」と「南部三州に自営農として」の二種類がある。

南部三州で自営農

 イタリア人移住は1870年代にはじまり、山岳地帯が多い北部イタリア出身者が中心になって南部三州に入った。
 その50年ほど前からドイツ移民は海岸に近い平野部を中心に、ウルグアイとの国境地帯に領土保全を目的とした開拓農民として多数入っていた。後からきたイタリア移民は、海岸部から離れた交通の不便な山間丘陵地帯に入らざるをえず、そのような場所でもやっていける北部イタリア人が選ばれたようだ。
 イタリア人を大量に入れた目的は国民の「白人化政策」、ラテン系でポルトガル文化に近くて比較的同化が容易だと思われたことと、先に根を張っているドイツ移民に対抗させ牽制する狙いもあったという。
 山間部のイタリア人入植地では零細な農業しか営めず、家計を補うために羊毛、行商、靴の修理など様々な副業を行った。北部イタリアでブドウ栽培やワイン生産をしていた移民も多かったことから、ブラジルでもそれに従事した。
 また平野部で大規模農業をするドイツ系コロニアにデカセギをするケースが多々見られた。祖国でも同様のことをしていたので、その様なことに慣れていたという。

聖州でコロノ生活

 カンピナス地方の場合、コロノ一人がコーヒー2千~3千本を受け持ち、その賃金が農園から支給された。ただし奴隷同様の前近代的な労働条件であり、農園のカパンガ(用心棒)の暴力的抑圧にもかかわらず、ストライキが頻発した。北イタリアで農園労働に従事し、労働争議を経験している移民が多く、それを当地に持ち込んだ形だ。
 なかでも1913年にリベイロン・プレットで行われたストライキは、労働者1万5千人が参加するという大規模なもの。ただし農園主の要請で治安部隊が投入され、ストは失敗した。
 北村教授は「南部の自営農も聖州のコロノも、形は違え、ともに郷里での文化や経験が移住先でも再生産された」と分析した。
 そんな事情から農園からの逃亡が頻発。主な行先は「他のファゼンダ」「都市部」「アルゼンチンやウルグアイ」「祖国に戻る」の四つだったが、イタリアに戻るのが最も難しかった。
 移民から本国へ「奴隷同然の状態。送りだしを禁止せよ」との告発が発せられ、本国政府は1902年にブラジル行き移民の渡航費補助を禁止。聖州のコーヒー園労働者が徐々に枯渇し、1908年から日本移民が導入される契機となった。

農園スト破りで日本移民?

アマゾン日本移民について講演した丸山教授

アマゾン日本移民について講演した丸山教授

 講演後、本紙から「農園でのスト破りとして日本移民が導入されたという話を聞いたことがあるが?」と質問すると、北村教授は「十分にありえるが、証明するような書類は見ていない。当時、フランスにおいては、地元民が起こした労働争議の、スト破りのためにイタリア移民が入れられた構図がある。ブラジルにおいては逆に、イタリア移民のスト破りとして日本移民が導入されたとしてもおかしくない」との見方を示した。
     ◎    
 当日は丸山浩明・立教大学教授が「ブラジル北部における日本移民」を発表した。同地方は、アマゾン地方は国家的アイデンティティに関わる象徴的な場所。そこに日本移民が入って、まったく不慣れな熱帯作物であるはずのジュートや胡椒の栽培などで国家的な貢献をしたことは、世界に対して大きなメッセージを送ることになったと位置づけた。
 熱帯病で多くが亡くなり、入植者の3分の1しか残らなかった植民地もあった歴史を振り返り、丸山教授は「アマゾン移民史の中でも書かれていない闇の部分に光を当てないと、本当の日本移民史の全体像は分からない」と述べた。
 その後、午後4時からは鈴木祐司法政大学教授の講演も行われた。

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