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河川輸送大国パラグァイ=常石造船所を見学して=海がない国の工夫と知恵=アスンシォン在住 坂本邦雄

屋外船台で建造中の3千トン級バージ

屋外船台で建造中の3千トン級バージ

 去る11月10日(木)はアスンシォン老人クラブ寿会(菊池明雄会長)の会員41人が、首都アスンシォンの南方約40キロに所在する常石グループの造船所を見学した。港町ビリェタ市のパラグァイ河沿い工業団地内に、2008年に開設された同造船所。寺岡工場長の案内によって、皆で老いの好奇心もよろしく、珍しい施設や設備を楽しく見学する有益な機会に恵まれた。
 この老いて益々盛んなる我が視察団は、当日午前8時にフェルナンド・デラ・モーラ市の神内日系社会福祉センターから、近距離のパセオ(小旅行)にはもったいない位のダブルデッカーバスで目的地へ向った。道筋の町々の活気ある最近の変貌ぶりが珍しい。筆者が昔良くパラグァイ河で魚釣りをしに来たビリェタ市。かつての地域基幹産業としてその偉容を誇ったアルゴドネラ繰綿工場は、今や哀惜の廃墟と化したが、町全体の様相は俯瞰的に新興都市再編の軒昂たる息吹が感じられる。
 これはパラグァイ政府が、ビリェタ市隣接郊外のパラグァイ河沿いを広大な工業団地を設定し、内外成長産業誘致の促進を計ったためで、常石グループに限らずオランダ系資本コンコルディア・グループのLa Barca del Pescador(漁夫の舟)造船所など、複数の有力な造船所や、その他、各種有数の多国籍企業が進出したためだ。
 さて、目的の常石造船所へ定刻に到着すると、まず、高原社長の歓迎を受けた。その後、総務課の佐竹課長の会社沿革について種々の説明を受け、一同は寺岡工場長の案内で、広大な施設現場をバスで移動しながら見学した。
 この後は、グループ経営のGALSA農場の菅原社長の案内で、農牧開発事業(面積2万5千ヘクタール、開拓面積約4千ヘクタール)を見学、昼食は農場事務所のパラグァイ情緒豊かな森の木陰で、純日本式弁当の接待を受けた。
 そして、我々は大いに満足の中、常石グループの歓待を謝しながら一同帰路に就き、朝出発した福祉センターに無事帰着したのが午後の3時頃だった。

▼沼隈移民時代からの古い関わり

 ところで、そもそも常石グループの南米との関わりは長く、戦後日本が復興期の1956年に、神原汽船2代目社長の神原秀夫氏が広島県の沼隈郡(現福島市)沼隈町長としてパラグァイへ、同町やその他の出身者450余名に成る移民団を結成した事に始まったもの。
 これが当時、日本海外移住振興会社(株)アスンシォン支店(現JICA)にいた筆者は、正に開拓の最中だったイタプア県フラム移住地に集中的に入植したのを昨日の様に記憶する。
 なお、神原汽船は1957年にエンカルナシォン市に事務所を開設し、その後ウルグァイにも拠点を置き、1975年には神原ウルグァイ会社(株)を設立している。
 海運会社の神原汽船はメイン株主の常石グループの源流企業で、アジアを本拠とした活動体制は国内工場とフィリッピン、中国、パラグァイの海外3工場の4つの拠点において造船事業を鋭意開発した。パラグァイでは農業・牧畜、河川輸送、地域開発、自動車技術の各事業会社を傘下に置き、企業としての社会責任の義務も忘れず、「神原基金」や「パラグァイ神原育英会」等の運営でも社会奉仕している。

船台のプッシャーボートの前で一同記念写真

船台のプッシャーボートの前で一同記念写真

 訪問した「パラグァイ常石造船会社(株)」ではDWT(載貨重量トン数)1500~3千トン級のバラ積みバージ、3500立方級のタンクバージの他に、推力4千~6千馬力のプッシャーボートを急ピッチで建造し、パラグァイの河川輸送の需要に応じ、その充実化に寄与している。
 最近パラグァイは南米地域各国中でも年間GDP3・5~4・0%の経済成長率を誇る優等生だ。でも、内陸国の悩みで毎年増える大豆(USDA・米農務省はパ国の2016/17年度の大豆輸出量は530万トンに達すると見ている)、トウモロコシ、小麦等の穀物や冷凍牛肉の大量輸送の問題が常に付きまとう。

▼内陸国なりの物流を模索

 海があっても広大な幾つかの内陸州を擁す隣国ブラジルは、物産の運賃が高くつく陸上輸送の問題があるのは、パラグァイや同じく内陸国のボリビアでも同然である。
 ここで触れるべきは、この問題対策の為に関係諸国のアルゼンチン、ボリビア、ブラジル、パラグァイ及びウルグァイは政府間で「水路開発委員会」を構成し、河川の増減水期のいかんに拘わらず、年間365日を通じて「パラグアイ―パラナ河水路」の永続航行性を維持する目的で当該「国際水路計画」を検討し、実現の運びにある事である。
 当計画には付随する各港湾施設の機能改善、効率化を含み、IDB・米州開発銀行、FONPLATA・ラプラタ河流域開発基金、UNDP・国連開発計画及びCAF・アンデス開発公社等の各国際機関が参画し、それぞれの関係協定を結んでいる。
 ちなみに、この「パラグァイ―パラナ河水路」のスケールは、北はブラジル、マット・グロッソ州のカセレス港に始まり南は延々とボリビア、パラグァイ、アルゼンチンを経て、ウルグァイのヌエバ・パルミラ港に到る全長3302キロに及ぶ大国際水運航路である。(註=多くの出典には3442キロとあるが、これはブエノス港を起点とした距離である)。
 そして、その及ぼす経済影響範囲は72万平方キロで間接的には350万平方キロにも達する。
 しかし、一概に「水路の永続航行性の改善計画」とは言っても、浅瀬水流の浚渫、難所岩石の爆砕除去、航路標識の設置や船の航行難所たる蛇行河岸の改善工事等は自ずと自然環境に影響し、河川生態系の破壊も侵しかねないのも一つの課題である。
 我がパラグァイは肇国以来、貿易の発展を促す要として河川航行の運用を施策として来た。だが最近20年来、海外との貿易は正にその85%を水運の利用に依存するに到った。

▼河川船舶の成長率南米一

 現在、パラグァイの河川船舶の「指数関数的成長」は南米一であり、世界では第3位の地位を占めている。それは、パラグァイ国籍の船舶を擁する46社の廻船問屋と、地域有数の先進技術を誇る造船所13社によって示され、かつ、これ等の雇用創出における貢献度は全国で5万人にも及ぶものである。
 先述のLa Barca del Pescador造船所のギリェルモ・エールケ社長は、「海洋河川廻船問屋協会」のメンバーでもある。彼は、パラグァイは河川航行の分野では、アメリカ及び中国に次いで3番目だが、バージ(平底舟)の保有量に関してはアメリカの4万隻に続いて3千艘で2位だと語った。
 この造船所は目下Nautic Twin Barge(双子バージ)を建造中で、来る12月には進水する予定である。この双子バージの規模は全長120メートル、全幅30メートル、高さ7メートルで、20立方フィートのコンテナ700個又は冷凍肉、大豆、木材、木炭など大量の雑貨積載量を誇る。
 パラグァイは先にも触れた様に、河川輸送では世界で3位の水運国であり、アメリカのミシシッピー河と中国の黄河それぞれの水運量に次ぐものである。
 昔は殆んどアルゼンチン等の外船にパラグァイ河の水運を任せていた事を思えば、今昔の感も一入である。
 ここで、ちょっと最後に触れて置きたいのは、明治時代に日本帝国海軍の近代組織化を遂行した山本権兵衛のごとき人物だと筆者が尊敬していた、故ホセ・ボッサーノ海軍大佐の予言についてである。

▼ボッサーノ大佐の予言

 ボッサーノ大佐はアメリカ、マサチューセッツ州のケンブリッジ工科大学に時の政府に留学を命じられ、その卒業論文となったのが優秀な砲艦パラグァイ号とウマイタ号の設計図だったのは有名である。
 この姉妹艦はチャコ戦争に間に合い、野戦軍の輜重兵站に重要な役割を果し、ボッサーノ大佐は造兵廠長官の職位から良く後備兵站の重責を果し、エウセビオ・アジャーラ大統領及びフェリックス・エスティガリビア野戦軍総司令官と並び、チャコ戦争を勝った三羽烏と称された。
 筆者がボッサーノ大佐の知己を得たのは、旧日本海外移住振興会社(株)、アスンシォン支店に入社して間もない、確か日パ移住協定と国営商船隊に対する造船借款協定が交渉中の1958年頃だったと思う。
 当時の日本公使館が、移住会社でも造船計画に関する調査の手伝いをせよとの事で、河船に詳しいボッサーノ大佐を支店長(西尾愛治元鳥取県知事)にお供して訪問したのが最初の動機だった。(※)
 ボッサーノ大佐は短躯で当時60余歳、その人柄は好人物だが、技術屋のプライドがあり、中々の頑固者でもあった。
 当方の主な質問は、パラグァイ河を航行する船舶の喫水の許容深度は何フィートまでであるべきか等、技術上の話しだったと記憶する。
 そして、造船借款の話については、パ国政府は、1~2千トン級の外洋河川両用の何種類かの貨物船(タンカー、家畜輸送船、フェリー、タグボートを含む)の建造を得意になって吹聴しているが、確かに自走船は見た目にはカッコウが良いかも知れないが所詮、河船は喫水線限度の問題よりも、変化の激しい河の水位に左右され、貨物積載量を常に100パーセント有効に活かせる訳ではない。

進水間際の4千馬力級のプッシャーボート

進水間際の4千馬力級のプッシャーボート

 したがい、パラグァイ河の河川輸送には建造費が遥かに安くつく性能の良い沢山のプッシャーボートと平底バージを建造すれば解決する問題である。昨今は日増しに海洋船の大型化が進んでいる時代に、パラグァイの様な内陸国が自ずとトン数に限度がある外洋兼用の河船を造るのは間違っている、と言うのがボッサーノ大佐の痛烈なコメントであった。
 確かに、今になってボッサーノ大佐が予言した様に、優秀なプッシャーボートや大型平底バージが国内で建造され、また多くのそれ専門の海運会社が登場したのは、アメリカのミシシッピー河の水運事情に明るかった同氏の忠言として感銘深いものがある。
 そして、かつて日本やスペインの造船借款で出来た優秀船それぞれの末路は、その後どうなったのか、筆者は知らない。
 それに変わって常石造船所をこの度訪ねて知ったのが「今までとは違ったパラグァイ」だった。(※自著『パラグァイに根差して七十五年』54~59ページ「印象に残る人」より一部引用)。

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