ホーム | コラム | 特別寄稿 | 特別寄稿=新移民の頃の事ども=サンパウロ市 村上 佳和

特別寄稿=新移民の頃の事ども=サンパウロ市 村上 佳和

「行け行け南米新天地」のポスターを見て

神戸市立海外移住と文化の交流センター「移住ミュージアム」に展示されている当時のポスター

 八十歳を迎え、移住してより、六十年。世界中がコロナ禍で旅行も出来ず、外出も控えて、家でゴロゴロして居る今日この頃である。早くコロナが終息する事を祈りながら、暇にまかせて、新移民の頃を思い返してみよう。
 高校最後の夏休み、進学か就職か、迷って居る時、日本はまだ貧しく鍋底景気と言われ、何時良く成るのか見通しがつかない時期であった。求人も少なく、大学を出ても良い就職口が少ない頃であった。
 しかし、その後、二、三年で東京オリンピックを目前に控えて、日本経済が急激に活気をおび、高度成長期に突入したのである。後、二、三年、ブラジル移住が遅れていたら、移住していなかっただろう。渡航費は五年据置き十年年賦で貸付であったが、日本経済が良く成り、返済免除となった。 
 役場の掲示板に「行け行け南米新天地」のポスターを見て、当時の日本は外貨の手持ちが少なく、一般の人の外国旅行は夢の又夢の時代であった。外国にあこがれていた私は、家族に内緒で県庁の移民募集に応募した。
 説明会、面接の後、しばらくして県庁から封書が届いた。「進学せず県庁へ務めるのか」と、母にばれて、ブラジル移住を打ち明けた。東京学芸大教授の叔父から、東京農工大繊維化学科を薦められて居た。未成年であった為、親の同意書が必要との事、母は、しばらく考えこんで居たが、「お前を信じるから」とハンコを捺してくれた。今でもこの一言は重く大切に心に残って居る。

レベルが高い花嫁たち

大阪商船サントス丸

 一九六十年三月高校卒業。四月二日、神戸港から大阪商船サントス丸で、家族、親せき、担任の先生、級友たちの見送りを受け日本を離れたのである。
 日本を出てから二日目位から、海は大荒れで一週間位、ハッチを全部閉めてひどい船酔いに苦しみ、食欲もなく、二度と船旅はすまいと思った。
 ハワイの北方のあたりを過ぎる頃、海は穏やかになり、甲板に出てイルカの群れや飛魚が飛ぶのを楽しんだり、二週間程で朝もやの中にロス・アンゼルスの山々が見えた時、アメリカ大陸だ。
 ついに太平洋を渡ったと、何だか世界の一人になったと感激した。あの気持ちは今でもはっきりと心に残って居る。
 パナマに向かって南下する時、左舷はるかかなたにメキシコの禿山が続く山脈を見ながら、甲板で剣道の練習をしたり、売店では無税なので、特級酒で同船者の気が合った者達とよく酒盛りをしたものだ。
 パナマ運河を通過する時、ガツン湖の岸の緑の美しさ、沢山のペリカン、たまに大きなワニに出会った。
 カリブ海に入ると、クリストバル島とキュラソー島に寄港上陸して、町を散策。大きなバナナの房を買ってベットの枕元にぶら下げて、手を伸ばしては一日中バナナばかり食べていた事だ。べネズエラのラガイラ港では、船中で友達に成った、ブラジルへ嫁ぐ花嫁さん達とタクシー二台で、カラカス市内観光をした。

1966年、広島県から4人の花嫁がアルゼンチナ丸で到着。4人をリオまで出迎え、コルコバード、ポン・デ・アスーカル、リオ市内観光。リオからサントスまで船で新婚旅行。今でも四組は親しく交際している

 ブラジルへ嫁ぐ七名、皆さんそろって美人で、話をしても教養のレベルも高く、どうしてこんな素晴らしい人がブラジルへ嫁に行くのだろうと不思議であった。日本では、貰い手がない人が行くのかと思っていた。(失礼)
 その時、嫁をもらうなら日本からだと心に決めた。後年、コチア青年の大勢の花嫁移住の人達と知り合ったが、やはり、外国に雄飛する気概のある人は、かなりレベルが高いと納得したものだ。
 ベレン港では、アマゾン流域に入植する三十家続位の人達が下船、我々は、レシーフェ、リオ・デ・ジャネイロ、サントスで下船。サントスには、パトロンとなる波多野さんが出迎えて下さっていた。

エンブーの野菜農園へ

 一晩かけて、サンパウロ近郊エンブー郡の農場へ、同船者の尾道市出身の松岡君と共に到着、すでに二年程先輩のコチア青年三名が迎えて下さった。大平原の大農場を想像して居たが、日本の山の中の景色とあまり変わりない八ヘクタール程の野菜農園で、一寸がっかりしたのを覚えて居る。
 又、日本での契約書では、給料六コントス、日本円に換算して丁度、公務員四級職程度、寝て食べて丁度自衛隊位。初めて受け取った給料が、最低給料の八分の一、全く只程。又々、ビックリ。
 それは、国法にそわない給料であるが、時のコチア産業組合の理事長下元健吉と日本の全農協との話し合いで農村の二男、三男をブラジルに呼び寄せ、日系農家の後継者を育てる為、四年間実習させ、独立する時に、それ相応の援助をする。すなわち、日本の昔の暖簾分け構想である。
 こんな国に来たのだから、私がパトロンになった時、只程でコキ使ってやるワイと思った。波多野農場で後にパラナ州マリンガ市の農産物仲買商に転職する迄、二年間働いたのである。
 パトロン夫妻は二世で、我々は「兄チャン」と呼んで結構楽しく働いたものだ。私は主にトラクターでの耕運を任されて居た。地形が悪く斜面が急な所が多く、下手すると横転の危険があり、横転すれば「死」か「大怪我」をする。
 当時、コチア青年が十数名亡くなったと聞いた。驚いたのは、戦後十五年過ぎているのに、エンブーでは、二派に別れて、勝ち組(信念派)、負け組(認識派)の感情的に尾を引いて、あまり交際していなかった。
 私が働いていた家の親父さんは、勝ち組のコチコチで、日本が負けたと言おうものなら、泡を吹いてぶっ倒れるような人であった。負けた事は、解っていたのだろうが、心情的に許せなかったのだろう。
 パトロンの中には、新来青年を「どこの馬の骨か解らんやつに娘をやれるか」と思う人もたまには居た様で、娘は娘で、作男か下男位に思う人もあった様だ。

河野外務大臣(当時)と村上夫妻

 隣の農場で娘に恋をしてキャベツ畑で殺蟻剤を飲んで自殺した痛ましい事件もあった。無論、パトロンに見込まれ娘と結ばれて幸せに成った青年も多く居た事も記しておく。
 新来青年の出世の一番早い方法は、パトロンの娘をものにする事であった。四キロ程、離れた所に浜田さんといって、食品雑貨とバールの店があり、我々、青年移民の相手をよくして下さった。
 妙ちゃん、好ちゃん、玲ちゃんの美人三人の娘が居て、時々四人で夜道をテクテク歩いて、ビールを飲みに行ったものだ。トラクターで行けば良いのに、パトロンがあまり良い顔をしないので遠慮して。我々の憂さ晴らし、夜でも快く迎えて相手をしてくれたものだった。妙ちゃんは、コチア青年の橋谷氏と結婚し、エンブーに住まわれて居る。

北パラナで実地研修

1961年、パラナ州北西部を視察。体験旅行をした時、時のコーヒー王柞磨氏と綿畑で

 一年程した頃、五十日程暇を取り、当時、パラナ州北西部が、どんどん開拓され奥地の農場を視察すべく県人会に紹介状をもらい、金がないから飯だけ食わせて下されと連絡して、無銭旅行をした。
 まず、ロンドリーナのコーヒー王と言われた広島県人、柞磨宗一氏のサンタローザ耕地七千ヘクタールでコーヒーと綿。私は綿畑で二週間実習した。支配人は、尾道市出身の三坂積氏と同郷でもあり、大変良くして頂いた。
 次は、マリンガ市から百キロ奥地の辻農場。ここでは、岡山県出身で新移民の畑本さんの家族と共にコーヒー園で、新しく開いた土地に四年契約でコーヒーを仕立てる請負で、コーヒーは三年目から実をつけ始め、四年目には相当な収穫があり、三年、四年目の収穫は全て契約者の収入となり、原始林の土地を数十ヘクタール買える収入に成り独立するのである。
 二十日程、家族と共に実習して、家族の労働力が良ければ、新開地で十年位頑張れば目鼻が付くと思った。
 独身では、歯が立たない。ついでにクリチーバ市近郊農業も視ておこうと、広島県人の浜崎さんの農場で実習した。浜崎さんは、クリチーバ市中央市場で野菜の仲買もされて居た。
 本当は、波多野農場の契約は、四年であったが二年で辞して、マリンガ市の農産物仲買商の野崎商会へ就職、初めはブラジル人に混じって、袋担ぎから始まり、商売の道に入ったのである。今考えると、早く商業の道に入り、二年程丸裸に成った事もあったが、その決断は正しかったと思う。
(終)

image_print