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二宮尊徳翁とアマゾン開拓=報徳の森に生かされる=神奈川県在住 松田 パウロ=(下)

パラー州のトメアスー移住地で、試行錯誤の結果に始められたアグロフォレストリー(森林農法)の畑

パラー州のトメアスー移住地で、試行錯誤の結果に始められたアグロフォレストリー(森林農法)の畑

森林農法

 黎明期のアカラ移住地は、野菜の生産で命脈をつないでいた。
 期待のカカオ樹は、病害で全滅し、全力投入の米の市場も無い。
 大河流域の乾季には、無尽蔵と想われる魚類が市場に溢れ、人間の経済活動を嘲笑う原始河川の躍動は、日本神話の「海幸山幸」の豊穣の世界そのままなのだ。
 河を下ってベレンの街で野菜を売り歩く日本人移民の集団は異様であった。
 ブラジル人に野菜を食べる習慣もないために、料理教習会から始まるのだ。
 日本人移民の神通力とも言われる三白農業(米、卵、蚕)の技は、全く無力のアマゾニアの都である。乾季に市場無尽蔵に市場に氾濫する魚類タンパクは、新興勢力のニワトリ卵など見向きもされない。
 一般の家庭では主食に米を食べる習慣も野菜を食べる習慣もなく、高品位の米を買う人もいない。
 しかし、草分移民の主力は、浄土真宗の安芸門徒 (あき・もんと)であったのは、幸運であった。
 「共生 共育」(ともいき ともそだち)の思想は、東洋的価値観の調和の森の文明を模索するに最善の生活態度を涵養し、適地技術を発達させていった。
 森羅万象に感謝を捧げる親鸞上人の教えは、アマゾニアに発芽を果たすのだ。
 過酷な開拓生活の中でも、俳句をたしなむ農民の姿は、ブラジル貴族社会には驚愕すべき一大事件であった。ボロをまとい経済的苦境に喘ぎながらながら、洗練された詩(俳句)を創作することなどラテン諸国には絶対に有り得無い。
 サトウキビ、コーヒーの大農園経営が基準となり、農地と農奴は使い捨てが、当たり前の風土では、農地を労わり慈しむ発想も存在していなかった。
 アカラ移住地は、胡椒の生産により一大発展を遂げることになるが、古老たちは胡椒増産に浮かれず、永年作物の導入に余念は無かった。
 開拓当初、原始林を伐採すると裸土の消耗が凄まじいこと、それは「草」が存在しないためである。
 南拓試験場も、後続移民も、祖国の草の種子まで持ち込み、豆科植物、緑肥植物の楽園へと生長してゆく。それは生存競争とは異質な調和の杜づくりの基盤整備を、いつの間に完成させてしまうのである。
 日本人移民集団が「化外の土地」に産業を起こし、地域有数の高額納税者となると、地域に舗装道路の開通と農村電化は実現するのだ。
 伐り拓くべき原始林に囲まれている開拓初期から、森のある未来景観を描ける才能は日本農民の特質かも知れない。
 厳しい日射を和らげ、木陰での集約作業を尊しとする気質は、水源林に対する畏れとともに、永続性のある街づくりにつながっている。
 移住当初は大陸の大規模農場経営に憧れていても、いざ作物が生長し収穫期を迎える頃、日本人ははじめて自分の畑が国際相場に翻弄される恐怖に晒され、追い討ちをかけるが如く凄まじい病害に遭遇し破産する者も続出する。
 ようやく安定した農場経営が家族の怪我、病気により一瞬にして消滅する事例にも事欠かない。
真の適地技術を、草分移民や先住民の智慧から求め、森を創る農法が完成し、多種多様な作物の流通と現地加工は、道路と電気の力で達成する。
 初期開拓移民の台所も食堂も土間であり、味噌、納豆、、アンパン、タクワンなどが農協婦人部の結束で、今なお伝承されている。
 アマゾニア初期日本移民の呼称(愛称)は、ナーボ(nabo はポルトガル語の大根の意味)と言う。異郷の街で挫けず野菜を売り歩く日焼した日本人の勇気と笑顔が彷彿とさせられる。
 売れ筋の、その大根の品種は、時なし大根であった。

生態系産業

 1908年6月18日にはじまるブラジル移民は、地力の高いサンパウロ州を中心に発展し、後の日本企業進出の信頼の礎の役割を果たした。
 企業再建の神様・土光敏夫社長(どこう・どしお)率いる石川島播磨重工業(株)のリオ・デ・ジャネイロへの造船所建設も、トヨタ自動車のサンパウロへの工場進出も、報徳の教えの実践を色濃くし、単なる企業利益追求の次元を超えている。
 最新の生産技術も現地に惜しみなく推譲し、経営財務の現地化を推進させ、優れた適地技術者を輩出させることにより、温もりある企業風土の醸成を成功させた。石川島播磨重工の進出からブラジルの海洋産業は目覚ましく発展し、誇り溢れる技術者の系譜は富士の裾野のような拡がりを有する。
 トヨタのカイゼン運動の発展も、人づくりから環境創造の域に入りつつある。
 掛川出身の橋本梧郎 (はしもと・ごろう)の、博物研究の完成もトヨタ財団の支援に負うところ大であった。1934年、掛川中学校卒業の橋本梧郎は、報徳思想の継承者として、実学としての植物分類学を牧野富太郎博士 (まきの・とみたろう)から伝授されていた。
 欧米列強が植民地経営のために博物学に国運を賭ける時代に、橋本梧郎青年は志高く移民船に乗り込んでしまう。大学に入る暇は無いと、蛮勇ではあるが、未開の地の植物探査は、若い力の為せる技である事は世界共通認識であった。
 日系開拓移民の農作物の調査と健康に資する薬用植物研究に生涯を捧げる。
 1950年に創建されたサンパウロ博物研究会は、牧野富太郎直伝のユーモアにあふれる講演会が好評となり、多くの弟子を育てている。
 1996年に丸善から「ブラジル産薬用植物辞典」を世に出した。
 日系人の組織を離れ、ブラジル社会に広まる俳句の季語の確定にも大貢献し、今日の隆盛を呼ぶ。
 2008年8月26日に95歳の天寿を迎える寸前まで執筆活動に勤しまれた。
 辞世の句は、「終点は大学の門 鳳凰樹 垂南」。

展望

 行政の言葉には、中山間地とか限界集落とかが、冷たく存在する。
 しかし、南米の日本人農業移民は人の住め無いとされる奥地に、新しい産業を興し、地域有数の納税者となり道路網と農村電化という文明開花を実現した。
 始まりは農業奴隷の代替え労働者という最底辺階級から身を起こし、適地技術を磨き上げ、農民という教養ある人種の存在を上流社会に認知させている。
 移り住んで技術移転は、世界の貧困を一掃するに最も優れた手法であり、その内に秘められた報徳精神こそ、日本国の海外技術協力の源流を成すのである。
 世界的な気象変動と飢餓の恐怖に対処できるのは、きめ細かな農場の管理と内陸養殖そして森林農法の進化と拡散にあろう。
 大規模開発から取り残された里山里海こそは希望の新天地として、都市緑化の進展とともに、明るい希望を与えてくれる。人口減少著しい地域こそ、生命力は眠り続け、若者を待ち焦がれている。
 植物や魚族の生命力を如何に引き出すか土着微生物と語り合い、時に経済効率から解放され、往時の博物学者の足跡を訪ねるのも決して遠回りでは無い。
 化学分析機器の進化の恩恵は、若い世代に委ねられ、より緻密な観察と実行を誘うのは、政府助成金を超越した、新たなる学問のすゝめである。
 そして身近な「森」の探究は、生命の源流をも蘇らせることであろう。(終わり)
【参考文献】
◎『二宮尊徳の遺言』長澤源夫、新人物往来社
『現代に生きる二宮翁夜話』中桐麻里子、致知出版
『江戸の家計簿』新井恵美子、神奈川新聞社
『実業家とブラジル移住』公益法人・渋沢栄一財団研究部編、不二出版
『自然のしくみ』西沢利栄、古今書院
『アマゾン河・ネグロ河紀行』田尻鉄也、御茶ノ水書房
『持続する情熱』青年海外協力隊50年の軌跡、国際協力機構、万葉舎

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