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謝罪求める声、未だ届かず=米国強制連行、不法滞在扱い=ペルー移民への理不尽な扱い

シバヤマ・アート氏の件を報じる3月19日付エスタード紙

シバヤマ・アート氏の件を報じる3月19日付エスタード紙

 ブラジル日本人移民は来年で110年を数えるが、その長い歴史の中で多くの移民が辛酸をなめた。その例の一つは第2次世界大戦中に起きた、日本人や日系人の強制退去だ。ブラジル国内ではサントス市に住んでいた日本人やその家族が強制立ち退きを命じられ、とるものもとりあえず移動し、家族がバラバラになった。だが南米諸国に目を広げると、国内移動に止まらず、米国の強制収容所まで送られたり、その後に日本に送り返されたりした例さえあるという。

 3月19日付エスタード紙が報じたシバヤマ・アート氏はペルーに住んでいたが、世界大戦勃発で米国の強制収容所に送られた例だ。
 シバヤマ氏はペルー生まれの二世だが、米テキサス州にあった強制収容所に送られた。大戦中、ラテンアメリカ12カ国からは約2200人の日本人や日系人が米国の強制収容所に送られており、その80%はペルー在住者だった。
 ラ米諸国から米国の強制収容所に送られた2200人の日本人、日系人の内、約1千人は、日本で捕虜となっていた米国人と交換する形で日本に送り返されたともいう。
 シバヤマ氏の母方の祖父母で、20世紀のはじめにペルーに移住したイチバシ・キンゾウ、ミサエ夫妻は、まさにこの事情で日本に送り返された。シバヤマ氏らはそれ以来、祖父母達に会う事は叶わなかったという。
 また、米国政府の意向で捕らえられ、強制的に米国に連れて来られたペルー在住の日本人、日系人は、身分証明書なども破棄された上に、大戦が終わってからもペルーに帰る事が許されず、米国に残り、定住する事を余儀なくされた。
 彼らは自分達の意思に反して連れて来られ、身分証明書類も作られなかったにも関わらず、大戦終了後「不法移民」として扱われ、一市民としての権利さえ与えられなかったという。
 シバヤマ氏のように、ラ米諸国から強制的に連れて来られ、強制収容所に入れられた上、家族との別離も経験した人々は、大戦終了後に米国政府を相手取って謝罪と賠償を求める運動を起こした。
 シバヤマ氏とその兄弟2人もこの運動に加わり、長い裁判闘争の末、1999年に5千ドルの賠償金の支払いで結審した。ところがその対象者の中に、ペルーから連れてこられた日本人やペルー生まれの日系人の名前はなかったという。
 シバヤマ氏らは新たな訴訟を起こした。彼らは米国に強制連行され、米国市民権を持っていなかった。そのために「不法滞在者だった」と判断されてしまい、新たな裁判でも敗訴した。
 シバヤマ氏らを支援している弁護士のポール・ミル氏は、このあたりの事情を、「ラ米出身の日系人は、自分の意思に反して故国から連れ出され、書類も破棄されるという苦しみを経験しただけではなく、不法入国者と指差される苦しみも経験してきたんだ」と説明している。

 裕福な生活から一転、強制収容所へ

シバヤマ家の家族写真(3月19日付エスタード紙)

シバヤマ家の家族写真(3月19日付エスタード紙)

 第2次世界大戦が始まる前のシバヤマ一家は、服地や衣類を輸入販売しており、それなりの財産を築いていた。父親達はその当時、メイドやお抱え運転手も雇っており、エリート階級ともいえる生活がアート氏らにも保障されていたのだ。
 だが、1944年3月に強制的に家から引き摺り出され、何も持たずに米国行きの船に乗せられた時、その人生は180度変わってしまった。
 当時13歳だったアート氏は、父親のユウゾウ氏と共に船底の部屋に押し込められて旅をし、女性や子供が部屋に閉じ込められている間に10分間だけ看板に出て、日光浴などをする事が許されたという。
 つまり、米国に着くまでの21日間、母親のタツエ氏や、まだ幼かった兄弟達5人とは顔を見る事さえ出来ず、心細く、不安な思いで毎日を過ごしたのだ。
 父ユウゾウ氏は1922年に15歳でペルーに渡った子ども移民で、大戦が終わってから、もう一度ペルーに戻ろうとした。だが、それは叶わず、3年後に諦めてシカゴに居を構えた。
 ユウゾウ氏は1970年代の終わりに、米国からの謝罪の言葉も賠償金も受け取る事なく、亡くなったという。

 山崎豊子氏の『二つの祖国』

山崎豊子氏の『二つの祖国』

山崎豊子氏の『二つの祖国』

 シバヤマ氏の例は、ラ米諸国から米国に連れて行かれた日本人や日系人の生活やその苦しみを示している。米国に移住した日本人とその家族が大戦中に経験した苦しみや葛藤、強制収容所の生活は、山崎豊子氏の小説『二つの祖国』からもうかがわれる。
 この小説の主人公は、ロサンゼルス在住で日本語新聞社の記者だった日系二世の天羽賢治だ。賢治は日米両国の文化を理解できる新聞記者として活躍していたが、記者として脂が乗ってきたその時、日米が開戦した。
 賢治とその家族は日系人であるという理由で、全員がマンザナー強制収容所に入れられた。米国人でありながら敵国の人間として扱われ、大きな屈辱を味わった賢治。米国人として生きるべきか、日本人として生きるべきかの選択を迫られるが、父達の意向に反して米軍語学兵となり、太平洋戦線へ向かう。
 他方、19歳で米国に渡り、洗濯屋として成功していた賢治の父、乙七と妻のテルは、日本人である事を貫こうとして米国への忠誠テストに背いたため、ツールレイク強制収容所に移され、それまで以上に過酷な日々を送る事になる。
 また太平洋戦線では、日本の大学に在籍中に日米開戦となり、日本軍に徴兵された弟(忠)が、戦場で賢治に誤って撃たれ、自暴自棄になる場面も出てくる。
 終戦後に日本に派遣された賢治は、原爆直後の広島に入った米国人も原爆症に苦しむ様子などに直面。米軍側の言語モニターとして極東裁判に臨んだ後に、原爆症で死んだ恋人の後を追って自殺する賢治の姿は、戦争が生んだ悲劇と、日本と米国という二つの祖国を持つ日系人故の苦闘も垣間見させてくれる。
 賢治の妻は日系人でありながら、日本で教育を受けた事がないために日本精神を解さず、賢治との間にすれ違いが生じる。その様子は、一世と二世や三世、日系人とブラジル人の間のすれ違いと重なり、他人事とは思えない人が多いはずだ。
 「ブラジルへ行けば箒で集めなければならないほど金が儲かる」と言われてブラジルに来たが、そんな言葉とは裏腹の生活に自暴自棄になり、自殺した戦後移民もいる。
 ドミニカに入った移民は農作物が育たぬ酸性土で泣いたと聞くし、熱帯特有の病気で倒れた移民なども相当数いる。
 辛酸をなめ、涙を糧として生き延びた後、家庭を築いて、平安な生活に行き着いた人もいる。同じ船で来た仲間が自殺したのを見て自暴自棄になり、生きる望みを失った人もいる。
 だが、石にかじりついて一念発起し、各々の国に渡った移民とその子孫が、各地に残した足跡は決して消えないし、消してはならない。
 先人達の涙の跡は、ほんの一部しかなぞり得ない。だが、彼らが味噌や醤油も作り、日本の味や文化を残してくれた人達のおかげで、後に日本から来た後発者も大した苦労をせずに暮らせた部分がある。
 今から109年前の6月18日、サントスに降り立った最初の移民が何を考え、何を感じたかは知る由もない。だが、辛苦をなめた人達の事を思いつつ、移民の先達が残してくれた足跡を、今一度胸に刻む日としたいものだ。

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