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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(38)

 同氏は市内中央区の自分の家でキタンダを経営しながら安定した生活を営み、日系人から生活上の依頼や要請があればそれに応えてくれる世話好きな性格と寛容さで、市内に住む県人たちからの信望を一身に受けていた。
 1955年に在伯沖縄県人会サント・アンドレー支部が創立された際には、その中心的立役者となって奔走した。同氏は昭和8年(1933年)11月西原村から9名家族で結婚ホヤホヤの新婚旅行気分でブラジルに移住してきた人で、温厚篤実な人間性が信頼感を呼んだのであろう。
 元々シヤカレイロとあって余暇を利用してシヤカラを見ながら我が家をよく訪問される内に支部のお知らせや総会通知状の原稿作成依頼にまで付き会う様になった。
 ブラジルで同じ血の繋がるウチナーチューの組織が活動していることにたいして共感し自分も会員に加入せざるを得なくなり入会した。1963年の年末であった。
 入会と同時に書記に指名されてしまった。当時はまだ50~60名位の県人集団で書記とは云っても別に大した仕事もなかったので引き受けた。一寸した手伝いであった。1964年になると平田志安が支部長となり、相変わらず書記として指名され手伝うことになった。
 これまで平田さんのシヤカラに空家がありそれを拠点に支部活動をしていた。しかし活動らしい活動はなかったし、有名無実の状態といっても過言ではなかった。
 その頃会館建設が話題となり、平田さんを中心に和宇慶朝六・大城助一に田港朝明等の指導者がその必要性を訴え、時の青年会メンバーに話しかけたら是非と云うことになり支部会館建設が具体化するようになったのであった。しかし、会員の中には「自宅さえないのに会館か」、と言った声もあった。
 さぞかし会館といえば今後会員は増大する可能性がある。それに今後の活動を一層活発にするとすればそれなりに会館も強固に少なくとも300~400人以上収容の広さが必要ではないかと云う皮算用が役員の一致した見方考え方だった。
 従って浮かんだイメージの会館建設資金とその施設などを考慮に建設委員会を立ち上げることになった。
 そこで1964年の正月に臨時総会の形式で和宇慶朝六さんの車庫に20数名が集り建設委員会が結成された。しかし、例にもれず執行部の正副会長、書記会計がそのまま建設委員正副委員長となった。最も必要となったのが資金造成である。
 さて当時(1964年)の執行部は、会長は平田志安支部長の下で、サント・アンドレー市会議員の仲宗根ペードロが副支部長、書記・会計に山城勇であった。丁度その頃ジャサツーバで売り出し中のロッテ2つを(現会館敷地)一緒に購入し3名の名義にして、書記会計は毎月その月賦支払いに携ったのであった。
 幸い仲宗根ペードロ市議夫人がイモビリアード(不動産の販売業)をしていたので、その手続き総ての面ペードロさんが一手に引き受けてくれた。当初敷地を求め120~130名位の会員で毎月定額寄付金の提供を受け約3ヵ年がかりの努力を重ねて1966年12月になんとか完成したのであった。
 当時薬剤師の宮城ニユートン氏は住宅をサント・アンドレーにしてサンパウロの市立市場近くで薬局を経営していたので何かと支部に関わりを持ち、その会館建設に対しても設計を申しでていた。こうした有能な二世層がサント・アンドレー市に住んでいたことは支部の発展に大きく寄与することにつながり有難い存在であった。

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