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移り来て 60年=ブラジルに来て良かったか=サンパウロ市在住 駒形秀雄

神戸港からの出港風景(『在伯同胞活動実況写真帳』(竹下写真館、1938年)

神戸港からの出港風景(『在伯同胞活動実況写真帳』(竹下写真館、1938年)

 晴れか曇りかはっきりしない季節も過ぎ、街路の木々も色鮮やかな花をつける時候になりました。
 自然はこのように神の恵みを示してくれますが、こと人間のやっている仕業に目を向けてみると、こちらはどうもいけません。世間の話を聞くと「ものは売れない。失業者はちっとも減らない。それなのに犯罪だけはますます増えて、友達とのんびり街を歩いてもいられない」冴えない雰囲気です。
 それにまだあります。新聞やTVを見ると、大物政治家や大企業幹部の不正や裏工作が次々と明るみに出て、毎日、新聞のトップ、全くいやになります。「他人の迷惑などお構いなし、自分の利益が第一」と手本を示してくれるブラジル式が正しいのか?
 あるいは『悪いことをしてはいけません。天から神様が見ていて、真面目に働いてさえいれば、必ず良い結果を導いてくれます』―こう教えてくれた先生や親の言葉が正しいのか?
 方向は正反対です。でも、日本の一人当たり国内総所得はブラジルの4倍強にもなっていて今は『勝負あった』。お金の面だけを考えれば日本に住む方が良いような気がします。
 「60年前、よりよい生活を求めてこのブラジルに来たのだが、その夢の地の現実はこれだ。ブラジルへ来た事は自分にとって正しい選択だったのか? それとも、誤りだったのか?」―フムフム、新天地に移り来てはや60年、人生の過ぎしこのかたを、皆様と一緒に考えてみましょう。

▼夢を求めて新天地へ

 戦争に敗れた日本は台湾、朝鮮を失い領土は半減、支配下だった満州、南洋諸島もよその国になってしまいました。
 本州など四つの島に八千万人、国の名前もそれまでの『大日本帝国』からただの『日本国』となって、ガッカリした国民の間には、やりきれない閉塞感がただよっていました。
 海外への渡航も自由に出来なかったそんな時代に、「ブラジルなら行ける。これから成長する国だから、丈夫な身体とやる気さえあれば明るい将来が約束されている」そんなおいしそうな話が聞こえてきたのです。
 「どうせゼロから始めるのなら、将来の見込みのありそうなブラジルで運を試してみようか」―海外から引き上げて来た家族や、閉ざされたような未来に満足していなかった若者たちが「よしやるぞ」と自分の力だけが頼りのこの道を選びました。
 こうして昭和31(1956)年から1961年にかけて、毎年5千人以上の人達が新天地ブラジルへ渡りました。
 山田青年もそんな中の一人でした。ブラジルへ着いてから環境に慣れるまでしばらくありましたが、60年代初め、うまいことに青果市場セアザに働き場が見つかったのです。就業時間は市場の性質上、深夜から翌日の明け方となり世間一般とは逆の生活となりましたが、山田さんは「普通の人と違う裏の道のほうが、花の咲く山に行き当たるかも知れない」と前向きにとらえました。庇護者もいない、資金もない山田さんは、とに角努力することだ、と骨身を惜しまず働きました。幸いこの職場では日本人が多く、日本語中心でも仕事が出来たのです。
 「山田さんは日本で学校を出てるそうだが、偉ぶらずに仕事熱心な人だ」と周りにも受け入れられ、自分自身のお客も増えました。
 そして、3年後にはかねて約束していた女性を郷里から呼び寄せ、貧しいながらも自分自身の家庭を持つ事が出来たのです。
 1960年前後はJK―ジュッセリーノ大統領時代で、新首都ブラジリアの建設や国の工業化が推進されました。この機運に合わせ、日本からもウジミナス製鉄や石川島造船などが進出し、日系人の活躍の場も広がり、世間にも活気がありました。
 1964年、軍によるクーデターが起こり汚職政治家は追放され、議会も閉鎖されました。一方、経済面ではデルフィンネットら若手エコノミストが中心となり斬新な政策が遂行され、68年から73年にかけては『ブラジルの奇跡』と言われる好況を国民全体が享受しました。
 しかしながら、この好景気も長くは続きません。外国から『明日の国ブラジル』などとおだてられ、オッファーされる外貨建て資金をドンドン借り入れて公共工事などに使いました。その結果、道路などは格段によくなりましたが、能力、限度以上の借金国になったのです。82年にはとうとうモラトリアム(国の破産)宣言をする事態に至りました。

日本、ブラジル国内総生産成長率

日本、ブラジル国内総生産成長率

▼不況でもインフレでも、俺は帰らん

 1980年代、今度は『失われた80年代』と呼ばれる不況とインフレの時代を過ごすことになります。物が売れないので工場も生産を減らす。すると失業は増えて庶民は物を買えない。景気は下がる。
 一方政府はお金が足りないから今度は紙幣を増発して(カネの値打ちが下がり)インフレはますます進みます。90年にはインフレ率月に83%という大記録まで作ったのです。収入が月にいくらと決められている月給取りはたまったものではありません。そして、銀行などでカネを運用出来る『金持ち』はますます金持ちになり、毎日借金に追われる一般庶民はますます『貧乏』になる。貧富の差はますます拡大して、社会不安も高まります。
 この頃、頑張って来た日本は神代の時代以来という好景気です。お金で溢れている日本で何日か働くとブラジルの月給くらいにはなる。2―3年辛抱すれはブラジルで一寸した家が買える。そんな例が身近で見聞き出来る時代でした。1990年、二世の日本への入国条件が緩和されるとブラジルからのデカセギがブームとなり、96年には在日ブラジル人の人口が20万―25万人にまで達しました。

日本、ブラジル人口推移

日本、ブラジル人口推移

 こんなある日、山田さんは旧知の佐々木さんを訪ねました。佐々木さんは農業一筋、当時アチバイアに住み観葉植物(葉っぱもの)を作っていました。「皆が日本は良い、金が余っている、と言っている。あんたは日本へ帰ることを考えてないか?」聞いて見ました。
 佐々木さんは応えます。「フン、日本なんか俺は行かん! 絶対行かんよ。俺は、ブラジルへ行って一人前の生活を築く、と苦労覚悟で日本を出て来たんだ。それを今更、ブラジルじゃ金にならん、飯が喰えんとおめおめ帰れるか。俺はここで頑張るぞ」
 山田さんはその晩、佐々木さんの家に泊めてもらい、二世の奥さんの手料理を食べ、心を開いて地酒を飲み交わしました。飲むほどに酔うほどにそれまでの緊張が解き放たれたか、佐々木さんが腕を振りふり歌い出しました。

『勝って来るぞと 勇ましく 誓って国を出たからは
手柄立てずに 帰らりょか 進軍ラッパ聞くたびに
瞼に浮かぶ 旗の波……』

▼良くも悪しくも これがブラジル

巨大な収穫機が横一列になって大豆を刈り入れる様子(Foto: Fernando Dias/Seapa)

巨大な収穫機が横一列になって大豆を刈り入れる様子(Foto: Fernando Dias/Seapa)

 山田さんも年も取ったし、身体に無理がきかなくなったので、それまでの仕事を辞めてアポセンタードになりました。苦労を共にした家内も元気でいるし、ブラジルで生まれた子供たちもそれぞれに学校を出て、立派に暮らしている。インフレ時代に辛抱して買った自分の家もあるし、良い友人もいる。今は大きな心配事もなく気楽に暮らしている。
 昔、若い勢いで言っていたような大農場主や企業家はならなかったが、それで良い、人生ってこんなところじゃないんですか、という気もしている。
 それにブラジルでは自分の人生を思い通りに、力いっぱい生きて来れたことが良い。それなりの結果を出した達成感もあり、自分としては満足もしています。
 しかしながら、今現在のブラジル社会を見ると毎日聞きたくもないような悪い話が多く、とても満足とは言えません。2010年過ぎから労働者党(PT)の政策の悪いところが出て来て景気が下がり始め、15年ー16年は成長どころか数パーセントのマイナス成長になりました。その上、大統領以下の政治家が皆不正行為に参画して何千万レアルとかの大金を自分の懐に入れ、恥じるところも無いのです。
 「こりゃ、ブラジルはメチャクチャじゃないか。盗人が上にいて、善人が下にいて苦しんでいる。こんなブラジルじゃ見込みはない。お前、良くするとか言っても、俺らが生きてるうちに一等国にはなれないぞ」友人はそう言い、周りは不安になります。
 しかし冷静になって考えてみるとボロクソに言われているのはこの土地に住む人間共の悪行なのであって、豊な自然条件は昔からずっと変わっていません。
 今一度、そのよい点を考えてみましょう。
★外見による人の差別がなく、外部の人達を快く受け入れてくれる。
★国全体、また、人人が若く、伸びしろがある。
★国土が広く、天与の資源に恵まれている。
 大豆、肉製品、オレンジなどの生産、輸出は世界1位、2位ですし、貿易収支はここ数年黒字を積み上げています。国内総生産、失業者数などでも景気好転のきざしが現われており、今年、来年とプラスの予測が出ています。この国には人間に例えれば、生まれつきの基礎体力があるのです。

▼この地こそが我がふるさと

 山田さんは親や兄弟の葬儀にも出席していませんでした。「自分も80歳を超えて先が見えてきた、元気なうちに親の墓参りもし、日本の人たちにも挨拶をしてこよう」それに日本の状況をこの眼で確かめれば『ブラジルへきて良かったか/悪かったか』心の踏ん切りもつくのでないか? そう考えて一人で訪日しました。
 両親の墓の前では「あれだけ世話になったのに、学校を出て直ぐ親から逃げ出してしまった。一人前にした親としては淋しい思いをしただろうに」―後でそれに気づいた不幸を詫びました。戦中、戦後の苦楽を共にすごした兄姉たちももう他界して、思い出話を聞いてくれる人も居ません。山田さんは悲しくなりました。
 宿に帰って色々想っているうちに、日本には「良男、よく帰って来たな」と喜んでくれる親ももういない。昔からの知り合いも少なくなり、ふるさとも60年も経つと様変わりしている。「やっぱり自分の住みなれた土地が一番だ。息子や孫も住むブラジルが自分のふるさとなんだ」そう気持ちの整理が付きました。
 「日本はやっぱりよい国だ。私の心のふるさとは日本だ。でも私が骨を埋める地は、自分で選んで自分で奮闘したここ、ブラジルだ。不満を言うばかりでなく、皆が協力して少しでもこの国を良くするよう努力すれば良いんだ」心は決まりました。=完=(ご意見、ご感想はメール=komagata@uol.com.br

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