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《ブラジル》アントニオ猪木「元気があれば何でもできる!」=(上)=少年移民の夢はプロレスラー=力道山と運命の出会い

会場とともに「1・2・3・ダーッ」と気合を入れた猪木氏

会場とともに「1・2・3・ダーッ」と気合を入れた猪木氏

 「元気ですか! 元気があれば、何でもできる。元気があれば、ブラジルにも来れる!」――。お馴染みのテーマ曲「炎のファイター」に合わせて手拍子が高鳴るなか、颯爽と入場したアントニオ猪木氏(74、神奈川)。そう第一声を発すると会場は一気に熱を帯び、大歓声が上がった。急きょ16日に決定された講演会開催にもかかわらず、文協小講堂は満席に。少年移民として一端は渡伯するも、日本で伝説のプロレスラーとして世界に名を上げ、現参議院議員として活躍する猪木氏。元気の秘訣は「一歩踏み出す勇気」と説き、翌年に移民110周年を迎える日系社会を激励した。

 猪木氏は1943年神奈川県生まれ。56年に家族とともにサントス丸で渡伯した。人生において最も影響を与えた人物の一人が祖父だった。当時、齢77。船旅の途中、食した未成熟な青バナナで腸閉塞を患い、それが原因となり、志半ばで命を落としたという。
 そんな祖父がよく口にしていたのが「夢を持て」という言葉だった。「その言葉が、いつも勇気づけてくれた」と猪木氏は振り返る。
 日本を発つ前、猪木少年が抱いていた夢が、プロレスラーになることだった。国土が焦土と化し、国民が夢を失っていた戦後、人々に勇気を与えていたのがプロレスだった。その試合を見るため、何千もの群集が一台の街頭テレビに集ってきていたという時代だ。
 渡伯後、猪木氏はマリリアから程近い、ファゼンダ・スイサに入植。到着翌日から、珈琲農園での労働に従事した。ブラジルに移住し、プロレスラーとしての道は閉ざされたかに思えた。だが彼が諦めることはなかった。
 重労働の後、毎日砲丸投げで体を鍛えた。「練習するうち少しずつ距離が伸びていった」と懐かしむ。いつの間にか陸上競技大会の少年の部で優勝するまでになった。
 ファゼンダ・スイサでの契約労働を終え、エスペランサ農地に入耕。「全伯が大凶作だった年。でも栽培していた落花生が大豊作になり、借金を返済し出聖することができた」と振り返る。
 出聖後、中央市場で荷車の人夫として働く。17歳の時、人生の転機が訪れた。それが60年に遠征のためブラジルを訪れていた、力道山との出会いだった。同陸上大会での結果を邦字紙で知ったとされる力道山は、その青年を探しに廻った。
 「市場の組合長が、力道山がこういう青年を探しているという話を聞き、『ここにいるではないか』と仲間が指差した。力道山から『すぐに日本に来てくれ』と言われ、その足で向かった」と秘話を語った。まさに、思いがけない形で夢が実現したのだった。
 その後、ジャイアント馬場と60年9月にプロレスラーとしてデビュー。間もなく、力道山の付き人となったものの、力道山は63年12月に死去。以来、武者修行を積み数々のタイトルを奪取する。
 なかでも、76年に東京武道館で開催されたボクシング世界ヘビー級チャンピョンのモハメド・アリーとの異種格闘技戦は、「世紀の一戦」と呼ばれた。「チケットはおよそ30万円。当時は、茶番劇とも言われ、大変な悪評だった」と豪快に笑い飛ばす。
 後の総合格闘技の礎を築いた猪木氏は、89年に政界に進出。スポーツを通じた国際平和を掲げ、政治活動を行うことになる。(つづく、大澤航平記者)


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 アントニオ猪木氏は講演で数々の逸話を披露し、どっと笑いが起こる場面もたびたびあった。日本を発つ前に目にしたという、元横綱日馬富士の暴行事件のニュースを引き合いに出し「かわいがり」という相撲言葉について自分の体験を次のように語った。当時のプロレスラーは、力道山も含めて相撲上がりの血気盛んな先輩がほとんど。力道山の付き人として地方巡業をしていた際には、「(力道山は)酒癖の悪い人で。ある時、夜中に片っ端から17台も車を壊してしまい、ヤクザに取り囲まれたこともあった」とか。
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 猪木氏は「宴会では一升瓶をラッパ飲みさせられて、少しでも飲むのが止まると灰皿が飛んでくることもあった」とも。「こんなことを言ったら、今の世の中なら袋叩きにあうかもしれない。だが我々からすれば、(日馬富士の暴力事件は)たいしたことはない。今の時代では考えられないことが、毎日のように起こっていた。体の傷が年の数よりも多いくらい」と隔世の感を示していた。良し悪しは別にして、「荒々しい大物」がゴロゴロしていた時代だったようだ。