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自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(2)

 夢は一転して、果てしなく枯草がひろがる荒涼とした冬景色の平原に、私は佇んでいた。二転した夢は、見知らぬ三、四人の白人が、冷えびえとした部屋でソファに腰をおろして、何事か話し合っていた。さらに三転した夢で、私は不安を押えながら、故郷の我家に辿りついた。
 なぜか勝手口に回り、戸を開けると台所の板の間に父母が並んで座っていた。夢の中の父母は無表情で、私を迎えてくれた。母は私の好物の卵の厚焼を作ってくれたが、かぶりついた卵焼には味がなかった……。
 夢はここで終ったが、前述したように折にふれ不意に思い出していた。この夢は、絶望に打ちひしがれそうになる抑留中の私を、最後まで支えてくれた。
 終戦後、博克図仮収容所へ行くために、夜間強行軍した際の終りの状況、シベリアの冬景色のなかに佇む私、そして生還という現実となったのである。


   第二章 ソ連軍迎撃(一九四五年八月)

  一、兵営と戦闘

 一九四五年三月二〇日、第一一九師団歩兵第二五四連隊第三機関銃中隊に入隊。入隊通知日は前年一二月一日付であったが、病後の回復が不順であったために、四五年三月二〇日に正式に入隊した。
 駐屯地は、旧満洲国(現中国北東地域)の北西部に横たわる、大興安領山脈海抜一八〇〇mに設営された免渡河である。
 在学中、軍事教練という必須科目があって、軍隊の第二期検閲までの教練検定に合格していたから、初年兵初期は楽であった。
 一期(三ヵ月)の検閲が終り、幹部候補生となる。次いで甲種幹部候補生に合格すると、七月から集合教育(予備士官学校へ入学するための予備教育)が始まった。
 想像以上に厳しい訓練である。機関銃は銃身(約二八㎏余)と、架台(約二八㎏)の二つの部分から成っている。弾薬箱も約二八㎏である。行軍の際、通常馬の背に載せて運ぶ。
 緊急時には銃身と架台に分解し、肩にかつぎ、弾薬箱は背のうを背負うようにして走る。この訓練は苦しさを通り越していた。
 一九四五年六月初旬、部隊は免渡河(めんとか)駐屯地を出発し、八〇㎞東方の伊列克得(いれくと)地区へ、行軍演習を兼ねて移動した。
 六月初め頃はまだ凍土に割れ目が走り、その間から迎春花の蕾が覗きはじめ、春の匂いがほのかに感じられた。伊列克得では、半永久陣地を築城するため、第二五四連隊は総力をあげて築城工事に突入した。
 だがこの陣地は完成を目前にして、ソ連軍が侵攻してきたため何の役にもたたなかった。
 甲種幹部候補生に合格した六月下旬、集合教育を受けるために、伊列克得から免渡河駐屯地へ帰る。班長は入隊時、教育班長であった本多伍長で、彼は私のことを覚えていてくれて時々声をかけてくれたり、たまの休みには班長室へ呼んで砂糖湯などを出してくれた。
「将校になれよ」
 と、いうのが口癖であった。彼は乙種幹部候補生であったから下士官にはなったが、同期の甲種幹部候補生が見習士官になって戻ってくると、劣等感に苛まれてならないという。
「将校になってみろ。地方では部長クラスだよ。頑張れ」
 といつも励ましてくれた。

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