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散り際の美学=聖市在住 脇田 勅(ときお)=<7>

 わたしは一朝有事の際には、いつでも進退だけはきれいにしようと肝に命じていました。これはわたしがもっていた人生哲学でした。
 県人会長を辞めるときにはスパッと潔くというのがわたしの信念であり、またその信念を貫き通す激しさをも、わたしは持っていました。また、わたしは『ドロをかぶるときは、言い訳をせず、全身でかぶれ』という教えを守ることを、自身の行動原理としておりました。
 わたしは県人会の会長の地位に執着や未練といったものを、ほとんど感ずることもありませんでした。名利はわたしの意識の外のものでした。わたしは、トップにもっとも求められるものは〝私心を捨てる〟ことだという基本的な認識を持っていました。人間をはかるのは、外見でも言葉でもなく、行動です。『人をみる、その退くをみる』という諺もあります。
 以上に述べたような理由で、名誉会長を解任した次の九月の定例理事会の冒頭、「この度の名誉会長の常軌を逸した行為によって起こった県人会の混乱は、すべて会長たるわたしの不徳の至すところです。わたしはその全責任をとって、本日限りで会長を辞任します」と断言して会長の地位を去りました。
 理事会では、「会長が辞める理由はない、続けてくれ」という声が大勢出ました。しかし、わたしの信念は固く、いささかも揺らぐことなく、初心を貫きました。
 わたしの会長在任期間は一年六カ月の短いものでした。しかし、わたしは週の半分以上は県人会館に行って、会長としての責任感と信念をもって仕事をしました。県人のために県人会を少しでも強固な組織にしておきたいという強い意志をもって努力した結果は次の通りです。
1、定款を改正して会の名称を『福岡クラブ』から現在の『ブラジル福岡県人会』と改称しました。
2、サンパウロ市内に一つしか支部がなかったので、各地区(バイロ)に支部をつくるように努めました。また、支部のない都市を積極的に訪問して、県人を捜し出して支部結成を強力に押し進めました。その結果、わたしが在任中に二十六カ所に支部を新設し、会員も約三百人増加しました。この会員増加は、わたしがもっとも力を注いだ仕事でした。
3、年一回の発行だった機関紙『玄海』を年四回にして、ページ数を増やし、二世三世のためにポルトガル語のページを設けました。
4、外国八カ国、三十カ所の海外福岡県人会と文通による情報交換事業を始め、交流をはかりました。
5.本部と支部、また支部間の交流と会員の親睦を目的に、わたしが会長就任の年とその翌年に、第一回と第二回の運動会を実施しました。
6、会員の親睦と会員増加をはかるため、県人会主催の第一回カラオケ大会を開催しました。
7、相談役、理事、監査役、支部長合同で、第一回の役員親睦の一泊旅行を実施しました。
8、相談役、理事、監査役、支部長の第一回役員世代調査を実施しました。これを定期的に行えば、役員が一世から二世、三世へと移っていく世代交代の動向を把握することができます。
 また、わたしは一九八三年三月から九月までの六カ月間、県連(ブラジル日本都道府県人会連合会)の理事を務め、次の仕事をしました。
1、定款改正委員会の委員長を務め、定款を改正しました。
2、機関紙『県連』第2号の副編集委員を務め、編集、発行しました。
3.県連主催、第一回県人会対抗カラオケ大会の副実行委員長を務め、開催しました。
 会長辞任後に、わたしの会長復帰が理事会の総意だからと再三の要請を受けました。
 しかし、一度引責辞任した地位へまた戻るというのは、かたくなに信念を貫いたわたしの信条が許さないので、これも固辞しました。
 しばらく経ったころ、「脇田さんは惜しい人だった。あんなに果敢な行動力のある人がいないと、県人会も発展しないし、新会館も建たないだろう」という声が理事会で出ていた、ということを人づてに聞きました。
 指導者というのは、何をしたかによって人々に記憶され、いかなる人間であったかいよって印象を残すものです。度重なる幸運に恵まれてせっかくつかんだ新会館建設の千載一遇のチャンスを生かしきれなかったことは、惜しみてもあまりあることで、痛恨の極みです。
 わたしの会長在任は短い期間でしたが、全能力を出し尽したという満足感は残りました。それだけが努力の報酬でした。こうして何か運命的なものを感じながら、黙って歴史の闇へと消えてゆきました。そして県人会の表舞台から姿を消し、完全に『過去の人』になりました。
「各人はおのれの道を行くことを学べ」とは、先哲の教訓です。マルクスの『資本論』の序文の中にあるダンテの次の言葉を、わたしは心の奥底に刻んでいます。
「汝(なんじ)の道を行け。人々をして語るに任せよ」(終わり)

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