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沖縄戦の惨苦――戦争孤児 親富祖政吉=第1回

親富祖政吉(おやふそせいきち)さん

親富祖政吉(おやふそせいきち)さん

 この『沖縄戦の惨苦――戦争孤児』は、「移民自身による手作りの移民史」を標榜する日ポ両語の同人誌『群星』の第4号に掲載された記事の転載。ブラジル沖縄県人移民研究塾(宮城あきら塾長)が発行する同誌には、毎号読み応えのある沖縄移民独自の物語が発掘され、掲載されている。今回の連載は、島袋安雄さんと宮城あきらさんによってカーザ・ベルデ支部で2月5日にインタビューが行なわれ、宮城さんが文章にまとめたもの。今まで我が子にも離したことがなかったという、沖縄戦によりわずか7歳で孤児になった悲しい過去をはじめて語っている。同誌は本紙編集部や沖縄県人会本部で無料配布中。なお合評会は27日(土)午後2時から県人会本部で開催されるので、興味がある人は参加を。(編集部)

 僕は、今から73年前に起きた沖縄の戦争のことを忘れたことはない。しかし他者にはほとんど語ることもないままに、今日まできてしまいました。わが子らにも語り明かすこともなく過ぎてきました。想い出すことは苦しいが、何かにつけ自然に想い出す。
 しかし、八十路に入りかけた今日、幼少年期の記憶が遠くに霞んでいました。
 そんなある日、ぼくの同郷の友人・島袋安雄さんから、「風の便りでしか知らないけれど、政吉さん、あんたが戦争孤児となった沖縄の戦争について、『群星』という本にインタビュー記事をのせませんか」と電話を受けた。
 僕は、「本にそんなことなどできないさ」と直ぐさま断りました。しかし安雄さんから『群星』のことやそこに書かれている城間信一、上原武夫、山城勇、そして大田きさ子の皆さんの戦争体験と移民のことについて聞いているうちに、僕の胸にグッと蘇ってくるものがあり、島袋安雄さんと宮城あきらさんのインタビューを受け、僕の戦争体験を語ることにしました。

▼父の戦死

 僕の父・親富祖政昌は、僕が生まれて2カ月もたたない内に赤紙で兵隊に召集され、中国漢口省で中国軍との戦争がはじまり、戦闘となった橋の上で戦死したことが伝えられています。僕が生まれたのは1937年11月ですから、父の戦死は1938年の1月です。父は、浦添から召集された兵隊の最初の犠牲者であったと言われています。
 母トヨは、あまりのショックでノイローゼになり、オッパイが出なくなり、隣近所に住んでいた姉さんたちが代わって僕にオッパイをあげてくれたと言います。そのお姉さんたちが戦後大きくなった僕に語ってくれたことによれば、僕のオバーカマは、大変親切な人で、困っている人がおれば、いつも手助けをしていた。そのオバーに感謝して、オッパイが出なくて困っている母に代わって僕にお乳を与えた、とのことでした。
 僕は、父の顔もわからない。父の写真さえ戦争で焼かれて何も残っていません。その父が残した唯1人の子供です。僕は母に大事に育てられ、カマオバーに7歳の時まで大変可愛がられて育ちました。
 僕の父は、屋号カーヌ前の親富祖政次・カマ家の養子でした。親富祖家は財産もちの裕福な家で、銀行に大きな金を預金していて、これで生活をしていました。土地も持っていましたが、田畑を耕さずに人々に土地を使用させて、人助けをして近所の人々から慕われていた、と言います。
 しかし、祖父母には子供が1人もなく、政次オジーが早く世を去り、その上、僕の父が戦死したので、オバーは僕を可愛がって育てたのだと思います。オバーは、那覇の銀行から預金を降ろす度に僕を誘って楽しませてくれました。きっと父のいない僕を不憫に思ってのことだったことでしょう。こんなふうに僕は、7歳のあの日がやってくるまで、何不自由なく育てられました。(つづく)

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