ホーム | コラム | 特別寄稿 | 特別寄稿=日中戦争とブラジル移民=亡き父の移住の夢果たす=聖州アチバイア在住 中沢宏一

特別寄稿=日中戦争とブラジル移民=亡き父の移住の夢果たす=聖州アチバイア在住 中沢宏一

1937年、38歳で2度目の招集を受けて出征した父との中沢家写真

 北海道稚内の弟から親父敬助が昭和12 (1937)年、二度目の召集を受け、気仙沼駅での出征記念写真が送られてきました。
 私が初めて見る写真で、甲種合格と胸を張っていた父の軍服での勇姿は堂々としているが、いつも明るかった母かねよの顔は厳しく悲痛な表情で、その時の立場を物語っている。
 それは長女12歳から娘4人、男子1人の子供5人、38歳の夫が召集されての見送りであるから、母の心中を察するに余りある。まだ米国との戦争に突入していないのに、名誉ある召集とはいえ、このような一家の長を何ゆえに召集しなければならなかったか、どうしても納得出来ない。
 昭和12年は日本軍が首都南京を攻略した年でした。将介石は重慶に移り、国民党と共産党が抗日民族統一戦線を結成し、全面的な戦争へと移って行きました。父は中国での出来事は部隊との連絡係を任務としていた位で、多くを語ることはなかったが、東京に出ると蒲田におられる戦友を訪ねることが楽しげでありました。
 中国での兵役を物語る事として、我家にはかまどの熱を利用して居間を暖めるオンドルがありました。時々中の石の掃除をしました。寒くなると大きなコタツとなって足を伸ばして朝まで寝ることもありました。エコな暖房でした。
 又、これも中国からの施設でトイレの汚水処理方式があります。3段に区切り処理して臭みがない状態にして畑に使っていました。これもエコな方法で私もアチバイアで作り処理しています。

父の形見。唐時代中期の詩人張継の「月落鳥啼霜満天」の掛け軸

 床の間に、南京と上海間の蘇州寒山寺にある石刻から直接墨で写し取ったのを買い求めた掛け軸がありました。唐時代中期の詩人張継の[月落鳥啼霜満天]の楓橋夜泊であります。父の形見として私が譲り受け我家に掛けてあります。
 兵役から帰って3人の男子が生まれました。兄は石根、弟は和一、共に軍人の名を付けました。私の宏一は八紘(宏)一宇から取ったとのことです。これも大東亜戦争の置き土産であります。
 一度目の兵役の後、ブラジルに移民する計画を記した日記が没後出てきました。私が17歳で移住の決意を話した時、反対もせず応援してくれたことが不思議に思っていたが、父の若い時の夢を息子が言い出したのだから内心喜んでいたのだろう。ブラジルには二度来てくれました。

日伯修好条約と榎本武揚

晩年の榎本武揚(Unknown authorUnknown author, Public domain, via Wikimedia Commons)

 ブラジルの日本移民計画は1895(明28) 年に日伯修好通商航海条約が調印されて、1897(明30)年には第一回移民が予定されておりました。しかしコーヒーの国際相場の暴落により中止されました。
 榎本武揚公が1867年明治維新の年、徳川幕府がオランダに発注した最新鋭の軍艦開陽丸で寄港したリオ・デ・ジャネイロは、コーヒー輸出景気で港まで鉄道が走り近代的な首都でありました。
 それを見聞された榎本公は戊辰戦争で最後まで抵抗しましたが、明治政府に仕え、外務大臣 農商務大臣などを歴任されました。その間温めておりましたコーヒー栽培を基軸とした中南米移民を計画しました。
 ブラジル移民が中止となり、メキシコ移民が1897年実施されました。準備不足と榎本公の年齢的な政治生命停止の時が重なり失敗し、メキシコ移民を榎本移民と称され汚名を着せられました。しかし、中南米の日本移民は榎本武揚公の発案と計画であることは忘れてはならない史実であります。
 明治政府は富国強兵を掲げて、全ての面で改革を進め、産業を興し、国内の土台を築いて行きました。ところが海の向こうの情況はアジア・アフリカの全域がヨーロッパ強国の植民地、アジアで残されたのは清国・朝鮮そして日本でした。
 北からはロシア、東からはアメリカ、南からはヨーロッパ諸国、西の中国はイギリスとのアヘン戦争(1940~42年)に敗れ、半植民地化されていました。
 朝鮮半島は自国を守れる状態ではなかったので清国と日本が内政指導権をめぐり対立し、1894、95年(明27、28年)日清戦争となりました。日本の勝利によって台湾と遼東半島を獲得、朝鮮の内政指導権を得ました。
 しかし、フランス・ドイツ・ロシアの三国干渉により清国に返還したが中国大陸への進出は本格化して行きました。
 日伯修好通商航海条約が調印されたのは1895年(明28)ですので、日清戦争と同年であります。以後は戦争とブラジル移民の推移と対比して行きたいと思います。

第1回移民送り出しの頃の世界情勢

 清国に返還した遼東半島にはロシアが進出してきて、朝鮮に対しても政治的干渉を続けていました。シベリア鉄道は1901(明34)年にはハルピンまで到達しており、イギリスは東アジアに勢力を拡げようとするロシアに対抗するため1902年(明35)日英同盟を締結しました。
 ロシアは日本の10倍と言われる予算と軍事力を持つ大国です。このままにして置いては満州鉄道が遼東半島まで敷設され勝ち目がありません。日英同盟に支えられて日本から開戦を通告しました。1904、05年(明37、8)の日露戦争です。
 日英同盟の成果、及び日本の後の無い周到な戦いで勝利しました。ロシア帝国の末期で国内に問題が多発していたのでロシア側から戦争終結を望んで講和条約が結ばれ 南樺太と遼東半島を含む関東州を得、満州鉄道の権益を獲得しました。それにより日本の安全保障を確立しました。
 このように日清・日露両戦争に勝利した日本から、第一回ブラジル移民船笠戸丸が1908(明41)年、サントス港に着き、世界の一等国に仲間入りした国民の誇りを持って上陸しました。
 1914年~18(大正3~7)年は第一次世界大戦でした。日本は日英同盟を理由にドイツに宣戦、中国の山東半島の青島を陥落させ、南洋諸島を占領しました。弱体化したロシアのシベリアに出兵、中国には二十一ヶ条の要求を認めさせました。
 1914年にパナマ運河が開通しました。ブラジルは1917(大正6)年に参戦しております。同年ロシア革命によって共産主義国家が誕生しました。
 ブラジル移民第二回移民船旅順丸は1910年(明43)に到着、第三、四回は1912年、大正に入り移民船は回を重ねて行きました。先ずファゼンダに配耕された移民はイグアッペ、レジストロ、コチア、リンス、モジなど各地に移って行きました。
 1914(大正3)年にはサンパウロ総領事館開設、1921年(大正10)バウルー総領事館開設、1924年アリアンサ移住地創設、1925年日本政府は移民全員の渡航費を支給する国策移民を開始、ブラジル日本移民送り出しの全盛期を迎えます。

満州進出と挙国一致体制

 日清日露戦争に勝利し、第一次世界大戦戦勝国である日本の勢力範囲は拡大しました。そして日本の躍進はアジア諸国の民族独立運動の気運を高めて行きました。
 その日本の動きを欧米諸国から警戒され、特にアメリカ国内での排日が強まりました。1921(大正10)年には米英日が5・5・3の軍艦保有率がアメリカの提案で決まりました。1923 (大正12)年には日英同盟が解消されました。1924年アメリカでは排日移民法が成立し 締め付けが厳しくなって行きます。
 日本では1923年関東大震災が起きました。
 1929(昭4)年アメリカから世界大恐慌が始まり、植民地を持つヨーロッパ諸国、共産主義国家ソ連、アメリカなどは経済のブロック化を進め、日本製品の輸出先を失ったので日本は東アジア独自の経済圏(大東亜経済圏)を目指しました。
 1933(昭8)年ドイツでは独裁者ヒトラーが首相に就任しました。
 1927(昭2)年日本はアメリカ・イギリスの暴行事件を理由に首都南京を砲撃し、国民革命軍司令官蒋介石に反共を促し、これに応え反共クーデターが起きました。1928年蒋介石は北京を押さえたが共産党及び地方の軍閥を統一させられない状況でした。欧米の支援を受け入れ、排日姿勢を続けておりましたので、1937(昭12) 年日本軍により南京侵攻を行われ、蒋介石は重慶に移りました。
 この年、父が召集を受け、南京方面で従軍をしたのです。
 国民党と共産党は抗日で合意統一して泥沼化して行きました。
 日本が権益を持つ満州では南満州鉄道(株)を設立、当時既に20万人が移住し、1万人の関東軍が駐屯しておりました。1932(昭8)年満州国を建国、これに対して欧米諸国に避難され、日本は1933年、国際連盟を脱退しました。
 満州国は日本の建国の気概と投資によって急成長して1933年の人口3千万が1945(昭20)年には5千万人に、12年間で1、7倍となりました。日本では1936(昭11)年2.26事件によって議会政治が崩れ、軍部の力が強くなって挙国一致体制が出来上がって行きました。
 そして1938(昭13)年、東亜新秩序構想を発表しました。1939年アメリカは日米通商航海条約を破棄、同年 第2次世界大戦が始まりました。1940(昭15)年ベルリンで日独伊三国同盟に調印、日本は1941年12月真珠湾を攻撃し、一気に東南アジアを制圧しました。

国破れてセラード開発へ

 ブラジル日本移民は昭和に入り、世界大恐慌によって不景気となった影響で急増して行きます。アメリカの日本封じ込めをよそに日本移民は世界五大強国の母国を信じ、誇りを持ってブラジルでの厳しい生活を切り開いて行きました。
 1926年(昭元年)には雑誌『農業のブラジル』を発刊、1926年東山農場創設、同年コチア産業組合創立、1928年バストス移住地創設、アマゾン興業創設 1929年北パラナ進出。
 1932(昭7)年、日本政府は渡航費の外に支度金も下付。アサイ移住地を売り出す。
 1933年、全伯スポーツ連盟が生まれ、前年のロスアンゼルスオリンピックでの日本人の活躍と1940年の東京大会への期待もあり、各種大会が盛んに行われました。新聞などの定期刊行物が多くなり、文化活動も盛んになりました。
 サンパウロ女学院創立。1935(昭10)年弓場農場(新しき村)建設始まる。サンパウロメルカードムニシパルが新設され、その周辺に日系人の集団地が形成される。1938(昭13)年に日本病院落成、1940(昭15)年に南米銀行営業開始。
 1941(昭16)年に日米戦争始まる。1942年、ブラジル参戦。メルカードムニシパル界隈から日系人立ち退き命令、敵性国民資産凍結令発布、及び敵性国言語使用禁止、敵性国民海岸線から退去命令など制約を受けるようになった。

コチア産業組合の下元健吉

 特筆すべきことはコチア産業組合の下元健吉氏の機転でもって戦時中組合員の生産と組合の営業が継続出来たことであります。組合員の増加と生産が盛んに行われました。その事が戦後日系社会全ての分野の発展を支えて行きます。
 ゼロからの出発では無く強力な基盤、後盾でありました。そしてブラジルの農業の発展をリードして行き、セラード開発を成功させ、世界の食料供給国の基礎を築きました。
 母国日本に帰国出来なくなった日本移民はブラジル定住に舵をきり 子弟の教育に努めました。これが最大の資産となり、日系ブラジル人が各界で活躍する基盤となりました。
 日本は戦争に敗れました。世界地図を見ても アジアの島国日本がどうしてあれだけの範囲で戦えたのか不思議に思えます。明治維新当時の世界情勢は日本にとって大変厳しいものでした。自国を守り、アジア諸国を欧米の植民地から解放するための大東亜戦争の戦いでした。

外地に惜しみなく投資した日本

満鉄のシンボル、特急「あじあ」(English: No information This image was photographed by 塩崎伊知朗from the original publication., Public domain, via Wikimedia Commons)

 日本国が統治したところにはその国の繁栄の基礎造りに惜しみ無く投資しました。この政策実施は他の国と異なる点で 短期間の内に急成長を実現しております。そして長期的な計画の元に未来に残る事業も展開しました。
 台湾は1895~1945年の50年間統治し、道路・鉄道・ダム・農地開発等のインフラ整備をし、砂糖産業等産業の振興と教育の向上を進めました。今でも友好関係にあります。
 朝鮮半島は1910~1945年、35年間統治、台湾と同様に投資し併合時には100校しかなかった学校を4600校まで新設しました。朝鮮半島を守り、基本的な国造りをしたのにもかかわらず、今もって政府が反日感情を煽っているのは情けない。
 満州国は先述のごとく12年間に1・7倍に人口が急増したことはいかに多方面に投資が行われたか証明しております。満鉄を中心の総合開発、大連の重工業など中国の近代化に大きな貢献をしました。
 そして大東亜戦争の大義であったアジア諸国の独立は、最後まで戦った日本人の犠牲の上に成し遂げられました。親日国であったタイに加え 日本軍の捕虜となったイギリス軍のインド兵を中心としてインド国民軍(INA)が結成され 、インドネシア、ビルマでも日本軍の指導で軍隊が作られました。
 戦後イギリス・フランス・オランダは再支配するために戻ったが彼らは果敢に戦いました。この軍組織がアジア各国の独立運動の中核となりました。中国でも日本での留学生が指導者として独立運動に加わりました。
 時代は移りアジア諸国の成長は目覚ましいものがあります。中国はアメリカと覇権争いするまで伸びて来ました。今イギリスでサミットが開かれておりますが中国問題が主な議題となっております。
 日本が主となって組織したTPPにイギリスが加入を希望しています。
 世界の情勢が変わって行きます。これからブラジル日系人からどんな人材が輩出されるか、母国日本と日系人がどんな関係になって行くのか、日本及びブラジルがどのようになって行くのか、など見守って行きたいものです。

image_print

こちらの記事もどうぞ