ホーム | 日系社会ニュース | コチア産組の栄華を偲ぶ=ピニェイロス文化親睦会55周年=山下譲二さん「日本人街だった」

コチア産組の栄華を偲ぶ=ピニェイロス文化親睦会55周年=山下譲二さん「日本人街だった」

来賓や出席者の皆さん

来賓や出席者の皆さん

 ピニェイロス文化親睦会の創立55周年記念式典が10月28日、サンパウロ市のピラチニンガ文化体育協会で開催され、60人余りが参加して賑やかに祝った。ピラチニンガ文協の傘下組織で、創立期にはコチア産業組合中央会のお膝元の日本人会としてにぎわい、会員数は800家族を数え、中央会会長になった井上ゼルバジオさんが親睦会代表を務める華やかな時代もあった。現在の会員数は60人程度だという。

 最初に浄土真宗本派本願寺(西本願寺)南米開教区の梶原洋文マリオ開教総長が、しめやかに追悼法要を行い、全員が焼香の列に並んだ。
 式典では中川浩巳さん(ひろみ)がキビキビと司会をし、在聖日本国総領事館の岩嶋健次領事、文協の松尾治副会長、援協の井上健治副会長、塾連会長代理の片田甲子己(かしみ)さんらが次々に祝辞をのべ、親睦会の寺田洋子会長が「幼いときに渡伯して山猿のように育った私が、こうして挨拶させてもらうのは本当に光栄」と謙遜しながら感謝の言葉を続けた。
 その後、ピニェイロスで生まれ育った山下譲二さん(二世)が、コチア産組全盛期のこの地域の様子を講演した。「60年ほど前、ピニェイロス川はとてもキレイで真っ白な砂浜があった。日本語学校では土曜日に川べりに行って、体操したり、絵をかいたりした」と懐かしそうに振り返った。そして「コチアが最後に進めていたショッピングセンター建設計画の基礎工事の残骸が今も残っているのを見るたびに、ショックを受ける」とも語って往時を惜しんだ。
 当日は90歳以上の10人(三隅松代、清原静子、家永益子、坂本リサエ、坂本明、切田諒美、家永葉子、玉井須美子、柳生あづま、加藤とみえ)に記念品が贈呈された。坂本明さんが乾杯の音頭をとり、昼食になった。舞台ではタボン文協のいきおい太鼓、玉井須美子さん指導による日本舞踊が行われた後、20代の二、三世が見事な日本舞踊を舞うジャパニーズ・ダンス・カンパニー「優美」(代表=花柳寿美富浩(すみとみひろ))が艶やかに披露し、喝采が送られた。
 40年前から親睦会に参加している玉井さん(92、愛知県)は「全盛期にはバザーを体育館でやると、人が集まり過ぎて入りきれないほどだった。カラオケ大会、芸能祭とか昔はいろいろやっていた。まだまだ頑張らなくては」と気合を入れなおしていた。
 来賓の井上援協副会長も、「なぜあの巨大なコチアが潰れたのか。その失敗に学び、援協も二の舞にならないようにしなければ。もっと過去を研究する必要がある」としきりに語っていた。


□関連コラム□大耳小耳

 ピニェイロス文化親睦会の講演で、山下譲二さんは「1940年代から70年代まで、この辺は日本人の街だった。コチアを中心に日本語学校、八百屋、魚屋、豆腐屋、日本食堂、洗濯屋、日本語の本屋などあらゆるものがあった。今と違って、家でも道端でもほとんど日本語だけ」と語ると、深く頷く聴衆があちこちにいた。94年にコチア産組が崩壊。「南米最大の農業組合、あれは日本人の誇りだった。本当に無残」と山下さんは嘆き、「なぜ日本文化を残さなければいけないのか、もっと真剣に考えるべき時代になった」と締めくくった。

image_print

こちらの記事もどうぞ