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臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(107)

第7章

戦争と迫害

 母国から遠くはなれて住む者の生活の変還、成功や物質的向上の確かな前途の見通のなさ、また、ヨーロッパ民族、ブラジル人、その他の人たちと意思を通じることの難しさが重なり、日本人移民は社会から孤立状態にとなった。
 とりわけ沖縄人は多くの場所で、他の日本人からさえも時代おくれの人間とみなされたりしていた。そこで、同胞の絆を強めようと、結成されたのが日本人会である。日本移民がいちばん怖れたのは子弟がカボクロ、あるいはガイジン(外国人、この場合は日本人以外の者)の労働者に関心をいだくことだった。それだけは許せない。もし、このような人といっしょにでもなれば、嫁あるいは婿との会話は不可能となり、ブラシルの日本民族の消滅の一歩となりかねない。ブラジルに向け出港したときからもちつづけてきた「大和魂」はどうなるのか?「大和魂」こそ、真の日本人、真の愛国者の精神ではないか。
 日本人は家では日本語をつかっていた。沖縄出身の者は家ではウチナアグチを使っていた。
 正輝は町まで討論にくる友人の高林明雄先生に年上の息子マサユキとアキミツに日本語を教えてくれるよう依頼していた。勤勉な先生は週に2日、自転車でマッシャードス区にやってきた。12巻からなる教科書のボロボロの1巻を二人の生徒に教えるためジャカランダのテーブルに置いた。
 第1課は「さいた、さいた。さくらがさいた」だった。二人は先生から渡された碁盤の目の線が引かれた紙にその文章を一角に一字ずつ、何回も書かせられた。日本語の文字を習得するには何回も筆記することが最良の方法なのだった。
 ところが、日本人の家庭内で使う言葉は雑だった。日本語にポルトガル語を混ぜて使う雑な言葉は、日常語をさらに劣悪なものにさせていた。
 たとえば家の部屋の呼び方に例をあげると、日本家屋にはない場所を指すとき、多くの家庭で、日伯語を混ぜて呼んだ。社会学者斉藤広志氏が192家族について統計をとったところ、136家族がポルトガル語で「sala」とよばれる応接間を日本語式に「saara」とよび、しかも、多くの者が「mesa(テーブル)の間」とよんでいた。手前にある寝室は「hurente(前)の間」と呼び、台所については、192家族中、190が「cozinha」といっていた。
 ポルトガル語の発音は日本語にない場合、それに一番近い発音で代用させる。
 たとえば「f」は日本語にはない。そこで「h」をこれに当てた。また日本語には子音が二つつづく言葉はない。そこで、子音のあとに母音「u」を足す。たとえば「frente」という単語は「hurente」となる。「brasileiro」は「burajireero」
 この場合、「z」が「j」になり、「l」が「r」になる訳だ。アクセントのあるときは、長音で発音する。また、複数を使うことはまれだった。日本語には複数がないからだ。また、移住者と付き合っているブラジル人も複数を使わなかった。語尾の「s」は母音の「u」を付けた。たとえば、スペイン人の娘の名「Dolores」は「Dorooresu」となった。
 ポルトガル語や他の欧米の言葉はこのような奇妙な発音となった。また、ときには、ポ語に日本語を混ぜたりもした。「ああ、疲れた!」が「cansado da naa!」となり、ブラジル人の笑いやひやかしのたねとなり、日本人を孤立させる原因ともなった。

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