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臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(129)

 1944年10月10日、正輝夫婦の次女、ヨシコが生まれる何週間か前、沖縄の中心市街地、那覇がアメリカ軍に猛烈な爆撃を受けた。5回にわたる襲撃だった。アメリカ軍は太平洋を日本の南と東、つまり、2方に向けて航空母艦を進め沖縄に合流し、その母艦から飛び立った戦闘機で襲撃したのだ。
 中国奥地の基地から飛び立った200機にもおよぶ戦闘機からも猛烈な襲撃を受けた。町の90%以上が焼きつくされた。有名な沖縄王宮のあった首里も何度も襲撃を受けた。島の役所が破壊され、由緒ある建物も首里に保管されていた歴史的書もすべて失われた。今後の方針とその進め方はいかに島を防衛するかにあてられた。司令本部は首里城の下の岩を掘った防空壕に置かれた。住民は軍の隊員に提供するため、自分の家を空けなくてはならなかった。島への侵略は確かだった。侵略の前に陽動作戦として、アメリカ海軍戦隊は港川への上陸演習を行った。港川は政輝が生まれ、13歳まで育った新城のそばにある。この予期せぬ攻撃に日本軍は強く反撃し、その結果に満足した沖縄の司令官、牛島満中将は東京の大本営に敵の侵略を食い止めたと報告した。
 しかし、本格的なアメリカ軍の攻撃は別の場所から始められたのだ。1945年4月1日、日曜日、復活祭に当る日だった。地上でのはじめの動きは8時30分、2万のアメリカ兵が島の西岸の中ほどに当る、読谷海岸に舟で上陸した。突然の襲撃で何の抵抗も受けず嘉手納付近で海岸を横切った。24時間以内に6万人の兵士が上陸したのだ。海軍陸戦兵、水兵、陸軍兵を統括して指揮に当ったのはチェスター・ニミッツ元帥で、その指揮のもとで、ネプルアンス海軍大尉およびターナー海軍中将の二人とバックナー陸軍中将が直接指揮をとった。地上では日本軍の何等の反撃もなく(何人かは空中からの狙撃や神風特攻隊の襲撃で死んだ兵士もいた)侵略軍は東に進み、沖縄を二つに分けることに成功した。
 所によっては東西2キロもない沖縄本島の中部を4月5日に占領したアメリカ軍は北方の山岳地、国頭に向って、南方は多くの住民がいる首里、那覇に向って進み始めた。兵士以外は何の情報ももたず、住民は方向も分らないまま逃げるだけだった。
 牛島司令官は島の北方、国頭に向うアメリカ軍をなんとか阻止しようと考えたが、その地域を手渡す以外に方法はないと考え、それを実行した。アメリカ軍はたった2週間で本部半島を含む島の北部を占領した。島の北部で死んだ日本兵は1万2000人といわれる。ただしこれだけが沖縄の大戦というわけではない。まだ、南部での対戦が控えていたのだ。
 牛島司令官の戦略は敵軍を拒むために海岸線で兵士を失うことを避けることだった。彼はアメリカ海軍が日本海軍よりずっと強いことを知っていた。また、敵の兵士の多くが北方で戦っていることも頭に入れていた。そのため、10万以上の兵士を中部の中頭と南部の島尻に集中させた。そして、敵の海軍、空軍の攻撃に耐えやすい海岸からずっと離れた壕や洞穴が多い場所を選んだのだ。約20万人におよぶ激戦はこのような狭い場所で繰り広げられたのだ。
 アメリカ軍が占領した南部は普天間付近、牛島司令官がひいた防衛線は那覇にはじまり、王国時代の首都、首里を通り、与那原に至った。この境界線の長さは15キロたらず、巾は3キロにも満たないところがあった。こんな小さなところに何万人の兵士、洞穴、山、泥、虫がいっしょに詰め込まれてしまったのだ。

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