ホーム | Free | やまと心の森林農法=アマゾン移住90周年に想う=神奈川県在住 松田パウロ=(下)

やまと心の森林農法=アマゾン移住90周年に想う=神奈川県在住 松田パウロ=(下)

故坂口陞さん

 サンパウロ市とベレンでは3000キロ、東京・マニラ間の距離にあるが、志ある日本人の意志は、不思議に繋がっている。坂口和尚と橋本悟郎との交遊。南米の大豆の父・宮坂四郎との信頼関係。
 坂口和尚は、40代の男盛りの頃、マンジョカ芋の研究に精力を注いでいた。
 和尚の兄は、フィリピン国のコレヒドール要塞攻略戦に参加し、熱帯林で飢餓地獄を体験し、その強烈な物語は時空を超え、繰り返し弟の胸に刻まれるのであろう。
 和尚は夕食時、ファリーニャを評しては、その優れた保存性と調理特性を語るのであった。
 ブラジル国の開拓地では、机上の空論は、全く相手にされないものだが、坂口和尚は、大河流域の素朴なマンジョカ栽培の観察から農家と農業の永続性に目覚める。その後、自分のカカオ畑の湿潤な下層にサトイモを増殖し、立体農法の効用を誰にも分かり易く展示する。自らは語らずとも美味しいイモ煮が食卓を飾るのみ。救荒作物のサトイモは、気候変動と飢餓の歴史を刻み、カカオ畑の林床に眠る。
 宮坂四郎は、南米の風土に適合する大豆の育種に際し、フィリピンのインゲン豆(シータオ)と交配させることで成功をおさめている。
 橋本梧郎は、移民した直後に、マンジョカの毒抜きから実学を発展させてゆく。
 飢餓に対する危機意識は、時空を超え、不思議なほどに人と人を結ぶのであろう。
 育種学者、博物学者、農民の三者が直接に一同に会食することは不可能としても、農業実習生や旅人を介して、情報交流は、穏やかに行われていくのであった。
 インターネット以前、情報とはまさに情に報いること。一葉のハガキ、一枚の写真、名刺の裏の手書きのメモなどに、静かな情熱は、ほとばしっていた。

南足柄にある丸太の森、福沢小学校(本人提供、昭和8年に建設された木造校舎)


教育林苑

 アカラ植民地の初代の移民は、人知れず、立派に日本文化の花を咲かせている。
 全く経済的に報われないが、もち米からアズキまでも栽培してくれたこと。移住地の黎明期から相撲大会を開催していること。
 質素ではあるが空調に優れた銘木作りの家に住まうことで、わずか20年で、辺境の森林地帯に定住農業を興し、空前の高額納税者の文化村を誕生させたのだ。
 ブラジル式開発方式ならば、開設3年ほどで、移民50周年のトメアス日系人口約2000人を超える市街地建設を達成してしまう。まず十字路を設定し、低所得者に無償で分譲するのだ。ただし教員なき小学校、大音量の狂乱音楽に、犯罪の多発する西部劇の街並みに甘んじなければならない。
 トメアス移住地は、十字路(Quatro bocas)を構えるものの、文協会館を中心に同心円状に極めてゆっくりと発展している。森林の遷移する時間感覚といえよう。
 そして移住地開設60周年に、全トメアスの電化達成の点灯式を迎えるのであった。
 人間では還暦だが、樹木では青年期に当たり、盆踊りは華やかさを増し始める。
 それは人口増加に見る肥大生長よりも、農の文化の成熟生長に重きを置く拓殖事業の、おもしろさであると、坂口和尚は力説する。
 当時のブラジル国の紙幣クルゼイロと聖徳太子の円の紙質の違いを連想する。
 坂口和尚は、晴耕雨読を徹底し、歴史関連の月刊誌を日本から取り寄せ、ボロボロになるまで熟読されていた。遠出の上着の内ポケットには、経典を忍ばせていた。
 ご実家は曹洞宗で、かなり厳格な躾を受け、農作業は作務そのもの、動く禅である。還暦を過ぎ移住地の僧侶として浄土真宗の教義を実践し、良寛さまのような語り口で若者を魅了するようになる。
 和尚も壮年期は組合の理事であったが、同じ作物を最低10年間作らねば、会議での発言は許さないという気迫があった。冒険心溢れる二世の組合員たちの理解を超えていた。
 しかし熱帯作物との対話を覚えるに、10年では短すぎるのが現実だ。鳥のさえずりに目覚め、創意工夫を求めてやまない森の仕事に追われる日々。
 早起き早寝の生活は、病気や犯罪者の存在しない健全な社会実現の第一歩でもある。風呂上がりの読書と家族の団らんを約束する究極の家は、森の中に建つ。
 日本人移民の家には、土足厳禁の居間と寝室が確立している。
 坂口農場では、呼吸する木造の家は、森に溶け込み、防火、防犯の機能を向上させ、台所のカマドの煙は、周囲の樹木を元氣にする。カマドの灰は、イモを太らせる。粉炭は、健全な豆類を育成する。
 坂口農場のかまどの燃料は、近隣の製材所の捨てる端材を原材料とする木炭である。その木炭は、かつてはトイレの壁面に積み上げ、アンモニア臭を吸着させ、菜園の自家製チッソ肥料としていた。
 台所は、森林エネルギーを燃焼するパワーユニットに違いない。敏子婦人の調理するマンジョカの葉の煮込み料理マニソバは、訪れる旅人を魅了して止まない。
 アサイザールの地名に恥じない、自家製アサイジュースは、多くの旅人に忘れえぬ感動をもたらしている。
 和尚の卒業論文は、郷里の紀州備長炭の各作業工程をストップウオッチで計測し、作業効率改善を考察するものであった。その探求心は衰えることなく、カカオの殻をはじめ様々な農産廃棄物を炭化するのである。
 第二トメアスの熱帯農業研究所の土壌分析技術者・大堂志郎と産業組合の農業技師・小早川利次等との討論は、実地演習とを交えて、果てしなく白熱してゆく。
 コショウ生産の築いた資本と文化施設があるからこそ、自由で純粋な研究活動に専念できるのだ。コショウ畑は緑の海のほんの一点に過ぎないけれど、森林農法の序章になっている。生存競争はせず、次世代の森を誘い、育て、枯れて土に還る。
 90年代初頭から、坂口農場では、日本の炭焼き伝道師・杉浦銀治の指導を仰ぎ、坂口農場の炭焼き窯は、森の化学工場としての進化を始めた。
 炭焼き窯の天井を作ること、補修をすることは、大変な手間であるが、その天井を鉄板で作り、その鉄板の上に土を盛り、ヤシやバナナの葉で覆う。土の消毒を同時進行させ苗床の培養土とする。炭焼き窯の底部には、家畜の骨を敷き詰め、リン酸肥料を産みだす。木酢液の多角利用も、はじまる。
 かつての山焼きの煙は、炭焼きの煙に変じ、煙を冷却して化学的に活用するのは、日本の森林文化の精華といえよう。鉄板天井の炭焼き窯は、トメアス坂口農場から森林農業のパワーユニットに昇華したのである。
 その着想は、ノモンハン事件の戦車の残骸に由来する。東京帝大に林学を学んだ炭焼き博士・岸本常吉は、ノモンハンの激戦を体験し、おびただしい鋼鉄の戦車の残骸の有効活用を考え始めた。岸本常吉の熱帯圏の炭焼き活動は、インドネシアはカリマンタン島にて試行錯誤を重ね、弟子の林業試験場の研究者・杉浦銀次が、トメアス移住地に、鉄板天井方式の炭やき技法を伝承した。
 その打ち合わせ、段取り、すべて土間の台所の大きなテーブルにはじまる。どんな孤独も楽しむ男の覇気は、炭火料理を活力としているのだ。
 農家のパワーユニットは、コンパクトな化学工場に発展し、土壌微生物の活性化しアマゾニアを、永遠なるみどりの宝庫にするに違いない。
 芋と豆は、経済恐慌を迎えた時、最も手堅い通貨になろう。木材は、乾燥と保管が正しく行われれば、木財として、家族の未来に伝承されよう。
 水資源の森の中に住む幸福、そして共生(ともいき)、共育(ともそだち)の仕組みを教える 環境保全地域をあえて教育林苑と呼んでゆきたい。
 「変人こそ世の中を明るくする」とは岸本定吉のお言葉であるが、若き日トメアスの三大変人に数えられた坂口和尚は、ブラジル移民100周年式典とブータン王国の農事指導を目前に生命を完全燃焼させてしまわれた。
 熱帯の知性は、同種で群れることを嫌い、孤独を楽しめる者を歓迎している。
 森林農法に、経典は無く、天地の声を聴くことに始まる。
 珠なす汗と、やまと心により、知識を研ぎ澄まし、血路を拓く。
 「やまと」それは、あにくに。豈国と書く。豈は、山と豆から成る楽太鼓である。
 アマゾニアは、マメ科植物の宝庫であることを念頭に、ひたすら、楽太鼓を打ち鳴らし、歓びあふれる楽しい国づくりを希求する。
 アマゾニアその緑の海を、吊り床に眠り、教育林苑の「ゆめ」は続く。(終わり)

image_print