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関根隆範氏を偲んで=ブラジル柔道と共に歩んだ同志=ブラジル講道館柔道有段者会 名誉会長 岡野修平

関根隆範さん

 10月30日の朝、私の携帯の呼び鈴は鳴りやまなかった。

 友人、知人、柔道関係者たちから、関根隆範氏の、日本での急死を知らせる電話であった。

 10月3日、サンパウロ州柔道連盟アレシャンドレ会長と共に、30人の若手柔道家を引率して訪日した。ブラジル公教育に現在、柔道を導入するプロジェクトを推進していただいている日本国スポーツ庁、講道館、筑波大学、ブラジル柔道を応援していただいている味の素本社および、関係機関にブラジル柔道の現状と、今後の取り組みを報告すると共に、お礼を兼ねて訪日していた最中のことだった。

 関根氏と最初に出あったのは、彼が慶応大学4年生、柔道4段の時、兵庫県に遠征に来て、慶応大学柔道部対兵庫県選抜チームとの各25人ずつの対抗試合であった。兵庫県チームは、当時の富士鉄(広畑)、大谷重工、兵庫県警、関西大学の混成チームを編成し、私は尼崎市の大谷重工に勤務していたので、兵庫県チームの副将として出場、関根氏は中堅で出場していた。

 その時の試合は、関根氏は関西大学森本氏との試合で、見事な〃足払い〃で勝利を収めた。当時は、足技での勝利は珍しく、今でも鮮明に覚えている。

 1960年頃、日本学生柔道の出身者が大勢移住して来ていた。ミナス州は岩船貢(拓大卒)、バイア州は吉田和夫、パラナ州は松尾三久、ブラジリアは二宮、松内、レシフェ市は河村、リオ市は片山、山本などなど各地で柔道を指導していた。

 当時、関根氏はサンパウロ市の武道館本部に所属、そこで毎日、稽古していた。我々はサンパウロ市で再会して、柔道を通じて交友を深め、共にブラジル柔道を如何に強くするかを語り合い、「我々の手で、オリンピックで金メダルを獲れる選手を育てよう」という合言葉に、まずサンパウロ州の選手強化に取りかかった。

(1)1967年~70年、パウリスタ柔道連盟、内藤会長の要請により、ピニェイロス・クラブにて、ブラジルの選手を国際的レベルまで向上させるための強化練習を実施した。同時に13歳~15歳までの少年たちを強化育成するための練習も始めた。

 ブラジル柔道の当時の現状は、各道場で稽古するのみ。それも週3回程度であった。我々は、有望選手を一同に集め、基礎、体力をつけること、日本での学生柔道の練習方法などを、そのまま取り入れ、稽古を始めた。

 選手強化の成果は、すぐ試合結果となって現れた。それは、他州にも影響を及ぼした。サンパウロ州が抜きんでて強くなることで、各州の柔道家たちは「サンパウロ州に追いつき追い越せ」となり、それぞれ強化練習を始めた。毎年、ブラジル柔道選手権大会では、ブラジル各地より指導者たちが一同に集まり、ブラジル柔道の強化について夜を徹して話し合った。

 その後、1970年には、ブラジル選手団は南米柔道大会、パンアメリカン柔道大会に優勝。ミュンヘン・オリンピックでは、中量級塩沢良平選手の活躍、軽重量級石井千秋選手の銅メダル獲得につながっていった。

(2)1982年、ブラジル柔道連盟セルジオ・バイ会長と共に、世界で初の講道館百周年記念柔道大会を、嘉納行光館長一行を招待し、式典を実行。有段者会が日系社会から寄付を集め、大会開催費用に充当。

(3)1995年、日伯修好百周年記念柔道大会を挙行。ブラジル柔連会長マメデ氏と共に、有段者会が主催。日本選手団(男女)22人を招待し、リオ・デ・ジャネイロ市、イパチンガ市、サンパウロ市3州に於いて柔道大会を実施した。

(4)2006年、サンパウロ州柔道連盟フランシスコ会長と共に、日本外務省の「草の根資金」の支援を受け、サンパウロ市イビラプエラ公園内に、オリンピック柔道場(300畳)を設立。南米柔道の拠点となった。

(5)2007年、ブラジル日本移民100周年を記念して、国際交流基金の支援の下、『姿三四郎』をポ語に翻訳、出版し、講道館柔道がどのように誕生したか、その歴史を多くの柔道家に伝えた。

(6)2010年、ブラジル柔道連盟パウロ会長の時代は、嘉納師範誕生150年を記念して、『姿三四郎』を全伯に配布した。

(7)2011年、日本講道館段位の取得について、ブラジル柔道連盟と協議し、ブラジル柔道連盟が認めた段位についてのみ取得できることで合意。

(8)2011年~2015年、ブラジル柔道連盟ネイ技術部長及び篠原監督の要請の下、関根副会長、城間理事が、ブラジル選手団の日本での練習拠点の確保及び、日本の各大学とのスケジュール調整など、側面より協力し、選手の強化をサポートした。

(9)2016年、テメル大統領訪日の折、文部科学大臣と伯スポーツ大臣の間で、スポーツ・フォー・トゥモローの精神及び「リオから東京へ」という考えに基づき、スポーツ交流・体育教育に関わる協力覚え書を締結。2016年、当時の在ブラジル日本国梅田大使に、ブラジルと日本とのスポーツ協定は、単なるスポーツ交流に終わることではなく、柔道を通じて小、中、高の学校に柔道を導入して、優れた人材を育成するべきだと提案した。梅田大使は、日本政府にその趣旨を伝え、実施することを確約、その後、現在のプロジェクトが動き出した。

(10)2017年9月、スポーツ協定に基づき、第一次研修団が馬欠場八段を団長とする、計7名を学校柔道の研修のため、筑波大学、講道館に派遣。

(11)2018年2月、筑波大学岡田準教授が来伯、サンパウロ州各地に於いて柔道指導と講演を行う。

 2018年9月、第二次柔道研修団が、青山六段を団長とする、計8名が学校柔道研修のため、筑波大学、講道館に派遣。

(12)2019年2月、筑波大学岡田準教授が来伯、サンパウロ市、リオ・デ・ジャネイロ市、クリチーバ市各地で柔道指導と講演を行う。

(13)2019年、ブラジル味の素社の支援の下、昇段希望者のための教材として、「柔道用語小辞典」を作製、子供たちに柔道の修業の目的を教える教材として「マンガで知る柔道の礼儀作法」小冊子を作製、全ブラジルに配布。貧しい子供たちへ柔道衣を贈る企画(5年間)など、ブラジル柔道連盟、パウリスタ柔道連盟と協力して実施した。

 ブラジル柔道の発祥は、日本移民の子弟の教育の一環として行い、自然に各地の植民地に定着していった。

 1930年から1955年、第2次世界大戦をはさんで、ブラジル柔道は各流派に別れ、前田光世の流れをくむグレーシー兄弟、講道館柔道の大河内辰夫、内藤克俊、鹿島真陽流柔術師範小川龍造の武道館、金光弥一郎の逆技と絞技を中心とした、高専柔道の流れをくむ小野安一兄弟が、それぞれ段位を発行、独自の指導法など群雄割拠の程をなしていた時代であった。

 戦後移住してきた学生出身者たちは、それらの人々が育てた弟子たちと競い合い、対立し、そして協力して、ブラジル柔道の歴史を積み重ねていった。

 その歴史の中で関根隆範氏は、常に中心人物としてすべてのプロジェクトに参加。その運営に携わり温厚、篤実な人柄で、多くの人々の協力と支援を得て、プロジェクトを成功に導いた人物であった。

 現在、ブラジル柔道界の指導者たちの中に、関根氏の薫陶を受け、その信念に賛同し、柔道の真の目的を理解し、実践している人々が多くいる。

 貴方がいつも話していた、「柔道を通して日本文化を正しく伝えていく」という目的は、在伯60年の貴方の経歴を見れば、この大地にしっかりと根付いたことは間違いない。

 貴方の誠実な人柄と品格は多くの人々に支持された。ブラジル柔道界のみならず、日系社会の要職を歴任し、多くの実績を残した。
 戦後移民の中で、後世に正しい遺産を残した傑出した人物の一人ではないかと思う。本当に長い間ご苦労様でした。心よりご冥福を祈ります。

 最後に貴方との永年のご友誼、心より感謝しております。
              合掌 
         令和元年11月3日記

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