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県連故郷巡りアマゾン=90周年に沸く「緑の天国」=(19)=アマゾンの石川県人列伝

野澤さん夫婦(前列)と辻さん、東さん、本橋さん(後列)

 西部アマゾンでは数少ない一世の野澤須賀子さん(旧姓・宮本)は、エフィジェニオ・サーレス移住地に入植した。その50年記念誌『天園』を読んでみると、1926年当時のアマゾナス州知事のエフィジェニオ・デ・サーレス氏から取った名前だという。
 同移住地は、マナウス市への生鮮食料の供給を目的に、アマゾナス州が創設した計画移住地だ。日本人移民は、17家族が58年11月10日に「あるぜんちな丸」で伯国に到着し、初めて入植した。
 同地は石川出身者が多く入植し、別名「アマゾン石川村」とも云われるという(50年記念誌36頁)。資料によれば、同県からドミニカ国に入植して成功した人物がおり、須賀子さんら宮本家も当初はドミニカ国に移住する予定だった。
 ところがドミニカ行きが打ち切りとなり、代わりとなったのがアマゾン移住だった。宮本家は、エフィジェニオ・サーレス移住地に第一次入植。同じく、西部アマゾン日伯協会の錦戸健会長も、石川県出身で同地に最初に入植している。
 その後、59年に田谷充実県知事が「南米に石川村を建設する」と選挙公約し、その際に推薦されたのが、エフィジェニオ・サーレス移住地だった。60年の第三次入植では、石川県から9家族が入植している。
 石川県から移住した宮本一家は、2年間は年3町歩分の土地を開拓していった。原始林を伐採していったのは、父と当時15歳だった兄・倫克さんだ。
 「母が反対したけど、兄は『頼むから一緒に行かせてくれ』と父についていった」という。その後、兄の倫克さんは、同地で最も大きい養鶏場を経営するようになった。
 他の日本人移民と同じく、須賀子さんも入植当時は大変だった。「マラリアで三日間気を失って死にかけた。『この子はもうダメだ』と言われたけど、まだ15歳だったから体力があって回復したの。不思議なことに、それ以降は全然病気しないのよね」と微笑む。
 須賀子さんの後ろに座っていた東博之さん(77、石川県)も、第一次入植者の一人。石川県から最初に移住したのは、この宮本家、東家、錦戸家の三家族だった。
 須賀子さんは、隣りに座っていた夫の野澤重夫さん(76、鹿児島県)と共に、現在はマナウスに住んでいる。「もう一世も残り少ない。私達がこういうイベントに参加するのは、今回で最後かもね」と少し寂しそうに呟いた。
    ☆
 アマゾナス劇場を後にし、ダイアモンド・コンベンションセンターで夕食会が開かれた。故郷巡り一行は会場に到着すると、それぞれ用意されていた席についた。

本橋さん、宮本さん、松村さん

 前県連会長の本橋幹久さん(83、鳥取県)が、何やら地元の人と親しげに話し始めた。先ほど記者がアマゾナス劇場で話した、須賀子さんの兄・倫克さんだ。
 「彼とはかれこれ50年来の付き合い。仕事の関係で知り合ったんだ」。本橋さんは、懐かしそうに思い出を倫克さんと話す。倫克さんは、エフィジェニオ・サーレス移住地の自治会長を務めていたなど、長く同地を代表する日本人として活躍している。
 本橋さんと共に倫克さんと話していた松村滋樹さんは、記者の父が鹿児島県出身だと話すと、「あそこに私と同郷の人がいるんですよ」と一人の男性の前に連れていってくれた。

鹿児島県人会の皆さん

 鹿児島県人会マナウス支部の武田興洋会長(77、鹿児島県)も、エフィジェニオ・サーレス移住地に第一次入植した家族の一人だ。「自分は高校2年で中退してブラジルに来たが、今では事業を興して大学を卒業した人を教育している」と笑う。
 母県に対する思いは深く、この日もサンパウロから訪れた鹿児島県人会の会員らと嬉しそうに交流していた。(つづく、有馬亜季子記者)

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