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憲法改正したら「人権は守られなくなる」のか?

ブラジル共和制宣言130周年

ブラジル最初の帝国憲法(1822年版)(Brazilian National Archives [Public domain])

 この11月15日はブラジル共和制宣言130周年だった。「共和制」とは、君主を持たない政体のことだ。1889年、軍がクーデターを起こして皇帝ペドロ2世を廃位して追い出し、首都リオの議会において共和制が承認・宣言された日だ。
 ブラジルの共和制は、一般国民が起こしたと言うより、コーヒー産業の勃興で生まれたファゼンデイロ(大農場主)という新興市民の意をくんで軍が実行したものだった。
 共和制とは、国家の所有や統治上の最高決定権(主権)を、君主ではなく、国民が持つ形の国民主権の政体だ。つまり、今のブラジル国家の根本がここでできた。
 そんな国家の在り方を定めているのは憲法だ。ブラジルは帝政時代に二つ(1822年、1824年)、共和制になってから7つ(1891年、1934年、1937年、1946年、1967年、1969年、1988年)の憲法を作った。共和制宣言以降だけをみれば、なんと19年に一つという割合だ。

エスタード紙11月15日付の共和制宣言130周年を特集した表紙。当時の紙面を再掲載したもの

 独立、共和制宣言、ヴァルガスの独裁政権樹立、同政権崩壊による民政移管、軍事政権樹立、同政権崩壊に伴う民政移管などの国家的な一大事の際、新しい時代に合わせた憲法を制定してきた。

102回も改正された現在のブラジル憲法

 さて、現在の「1988年ブラジル憲法」は何回改正されたかご存じだろうか? この9月までに102回だ。年平均3回以上になる。
 つまり連邦議会では、ほぼ毎年、憲法改正が行われている。皆が議論して国の根本方針たる憲法を磨き上げているという意味で、大変民主的だと感じる。

国外就労者情報援護センター(CIATE、文協内)で無料配布されている『1988年ブラジル連邦共和国憲法』(二宮正人・永井康之訳、インテルクルトゥラル社)

 今年7月に刊行された全訳『1988年ブラジル連邦共和国憲法』(二宮正人・永井康之訳、インテルクルトゥラル社)の前書きには《施行されてから約30年の間に約3分の1が改定された》(11頁)とある。憲法修正の番号が年代順にリストにされており、1992年の2件から始まり、毎年2~3件の修正法案が承認されている。
 多い年としては2000年には7件、2014年には8件も修正された。
 日伯の憲法を比較して《両国間の根本的な違いは、日本において憲法は「不磨の大典(編注=すり減らないほど立派な法典の意)」的な考え方が強いように思えるが、ブラジルにおいては、過去7回にわたって新たな憲法が作成されてきたことに見られるように、社会情勢に大きな変化があった場合、憲法を修正して新たな状況に臨む、というものである。その意味では、日本も敗戦時には進駐軍の命令により、明治憲法を現行憲法に改正せざるを得なかったが、ブラジルでは上記のごとく、頻繁に変わってきている》(同35頁)
 コラム子は法律に関してまったくの素人だが、これを読んで考えさせられた。
 ある意味、ブラジル以上に日本社会も変化してきているはずだ。にも関わらず、憲法にそれを反映させないというのは、外から見て理解しがたい、日本独自の不思議な現象といえる。
 もちろん、ブラジルの憲法も変えられない部分がある。でも、果敢に変えるべきところは変えてきている。

ブラジル人もビックリ?!《憲法って簡単に変えちゃってもいいの?》という日本の発想

 一方、日本でも憲法改正が再び議論になっている。「自民 憲法改正の世論喚起へ全国で集会」(NHK NEWS WEB-2019/10/17)には、《憲法改正に向けて議論の進展を目指す自民党は、幹部が出席して全国各地で集会を開くなどして党をあげて世論の喚起を図りたい考えです》などと報じられている。
 これをみて、憲法公布から60年以上たって一行たりとも変えていない日本のありかたは、世界の中でも異常な存在だと改めて感じた。

 さらに、日本弁護士連合会サイトに掲載されているパンフレット《憲法って簡単に変えちゃってもいいの?》を見ていて、その発想に改めて驚いた。
 見出しを順番に見ていくと(1)「憲法は国の権力者から私たちの人権を守るためにある」、(2)「国の権力者は、憲法を簡単には変えられない」、(3)「今、96条を改正して憲法を変えやすくしようとする動きがある」、(4)「すると、憲法がどんどん変えられて人権が守られなくなる」、(5)「しかも、国民投票の手続法にも、たくさん問題がある」という風になっている。
 つまり、「憲法改正」=「国の権力者(政治家)が人権を踏みにじる」という図式になっている。ここで問題にされている96条改正というのは、衆参両議院がそれぞれ総議員の3分の2以上の賛成がなければ、憲法改正の国民投票を提案(発議)できないという点だ。それを過半数だけで提案できるようにする動きに反対して作られたパンフレットだ。日本では、国会は憲法改正の提案をするだけで、ブラジルのように改正を承認できない。決定するのは、国民投票だ。
 しかも、国民投票に関して同パンフレットは「有料意見広告に規制がなく、お金持ちの政党や団体がTV等のCMを独占する」という問題があるので、いったん発議されたら国民は簡単にだまされるから国民投票はやらないほうが良いといっているように読める。
 国民をバカにしていること甚だしい一文ではないか。ブラジルは「ジレッタス・ジャー」なので大統領を直接投票で選ぶ。いわば国民投票だ。良くも悪くも「誰が選ばれても、自分たちが選んだのだから仕方がない」という形で納得するしかない。
 だが、日本弁護士連合会の言い分では、国民投票自体が信用できないとしている。そんなことを言うなら、民主主義の根幹システムである選挙自体も問題だろう。
 TVの政見放送と支持率の関係は、インターネットやSNSの普及によって大きく変わった。WhatsAppなどを良くも悪くも選挙に利用したからボルソナロ氏は選挙戦で勝てたと言われており、その変化がなければ現在のブラジル政局はない。
 日本だって既成の大マスコミが信用されなくなり、ユーチューバー出身の政治家が出てきている。であれば、TVCMうんぬんという理屈は、現状に当てはまらない。
 「憲法が日本国民を守っている」というよりは、「日本国民が憲法に縛られている」ように見える。

憲法改正に国民投票は必要なのか?

 ブラジルでは憲法改正するのに連邦議会の憲政委員会、専門委員会を通過し、下院では513人の議員のうち308人の承認を2回、上院でも憲政委員会を通過して81人の上議のうち48人の承認を2回得ないといけない。今回の社会保障改革法案(憲法改正案)では8カ月もかかっている。
 だが国民投票はいらない。だから、可能だ。だいたい連邦議員は国民から投票で選ばれた〃代表〃だという位置づけがある。だから、国民の代わりに審議し、承認する役割を果たす。
 そもそも、日本のように憲法改正に関して国会は提案しかできず、国民投票で決定するのでは国会議員の価値が低い。
 日本弁護士連合会の同パンフレットには、「96条が改正されたら、その時々の権力者の都合で、他の大事な条文も簡単に変えられちゃうかも――」と危機感をあおっている。
 危ない具体例として《憲法9条(戦争放棄)を変えて自衛隊を「軍隊」にして戦争のできる国へ!》と、《憲法21条(表現の自由)を変えてインターネットでの情報発信・収集を制限!》の2点を挙げ、「えぇー!そしたら憲法が国の権力者をしばることができなくなっちゃうんじゃない?!」と問題提起している。
 ここで気になるのは「権力者」という言葉だ。権力者と書くと絶対的な権力を持っている感じがするが、民主主義においては、選挙で選ばれたただの政治家だ。その政治家を支えているのは国民の投票だ。
 もしも国民が、その政治家が「権力をもちすぎ」と感じるなら、選挙で落とせばいい。そのような自浄作用をはたらくから民主主義は「国民主権」なのではないか。
 国民が「政治家に騙された」「意にそわない権力者を選んでしまった」と反省するのであれば、次の選挙ではそのタイプの政治家は選ばれないはず。その失敗体験の積み重ねで、民主主義は成熟していく。
 はなから政治家を信用していない同パンフレットの内容からは、「政治家=国民をだまそうとしている」「国民の人権を守る憲法は、最初から完璧な存在だから、いじること自体が悪」的な感じを受ける。
 そんな極論を、日本司法界を代表するエリート組織が堂々ということ自体、民主主義システムの否定ではないかと怖くなる。

異常なのはブラジルか、それとも日本か

 見てきたように、日本国内では「憲法改正」=「戦争に近づく」みたいな極端な議論がまかり通っているが、そんなことを言うならブラジルはどうなるのか?
 あれだけ聡明な日本の日本人が、こと憲法に関しては思考停止状態になってしまうのは、実に不可解な現象だ。「憲法」という存在に、きちんと向き合っていない気がする。やはり、敗戦のトラウマがいまも続いているのかと考え込まされる。
 宗教的な教義を書いた「聖書」と違って、憲法は時代に合わせて磨き上げていくものではないか。だいたい「憲法改正=右翼」「護憲派=左翼」という図式があること自体、すでにゆがんでいる。ブラジルでは右左関係なく、憲法改正を提案する。
 ちなみに、日本国憲法は4998語しかなく、大きな方向性しか書いてない。それに対して、88年ブラジル憲法は約8万語もあり、実に細かいことまで制定している。だから、年金改革したいと思えばあちこちを変える必要が出てくるという違いはある。
 とはいえ、米国憲法(1788年制定)は7762語しかないが、18回も憲法改正している。ブラジルと同じラテン系のイタリア憲法は日本と同じく戦後1947年に制定され、1万1708語あるが9回改正された。フランス憲法(1958年)は1万180語で、24回改正されている。
 諸外国の現状を思えば、日本弁護士連合会ですら「改正したら権力者に良いようにされてしまう」とか「変えたら戦争に近づく」というレベルで国民に訴えようとしていること自体、異常な感じがする。
 9条ウンヌンだけでなく、人口減少という国難に対応して、教育、医療など変えるべきところはいろいろあるのではないか。
 というか、時代の変化に合わせて憲法を変える必要がないと言うこと自体、実は憲法を軽視している。憲法はどうせ「建て前」だから、実際の変化を反映させる必要はない、と。きちんと憲法に向き合っているのなら、思想信条とはまったく別のレベルで、改正せざるをえないのではないか。
 コラム子的には、頻繁に改正されるブラジル憲法は、日本のよりも、国民の意思を反映した民主的な存在だと思えてならない。(深)

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