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新日系コミュニティ構築の“鍵”を歴史の中に探る=傑物・下元健吉(24)=その志、気骨、創造心、度胸、闘志…=外山 脩

〃足〃で書かなかった邦字新聞 

 パウリスタ新聞は、経営面でもゴタゴタが続いた。下元が乗り出したが、うまく行かず投げ出してしまった。つまり下元は、ここでも失敗している。
 なお付記しておけば、パウリスタ新聞発刊から10年も経った1956年1月1日、同紙は『コロニア戦後十年史』という雑誌を発行した。この中で10年前の騒乱を詳しく取り上げている。
 その中には、認識派の中心人物が州のDOPS(政治社会保安警察)に接近して行く過程など、非常に参考になる記述もある。
 襲撃事件に関しては、臣道聯盟を大きく紹介、聯盟の特攻隊が事件を起こしたと断定している。ところが記事を読むと、事件当時のポルトガル語の新聞記事を基にして通説をまとめただけの内容である。
 同時期、ほかの邦字新聞も、十周年特集号を出し襲撃事件を取り上げている。が、これは2、3頁の量である。趣旨はパウリスタと変わらない。
 致命的な点は、いずれの新聞も、記者が自分の足で書いていない=取材をしていない=ことである。パウリスタの十年史の場合「『臣道聯盟が襲撃事件は聯盟とは関係ないと言っている』とは書いている。つまり、そのことは知っていたのに、聯盟員の言い分を詳しく紹介することはしていない。
 その上、事件後の経緯には全く触れていないのである。
 事件直後に検挙された聯盟員約400名は、起訴されていない。裁判所(裁判官)が受け付けなかったのだ。検察側は開廷に値するだけの証拠を提示できなかったのである。
 つまり、臣道聯盟は「シロ」だったことになる。ところが、邦字新聞は、そのことを全く報じていない。
 一方で実際の襲撃実行者たちは、裁判を受けて服役している。彼らは臣道聯盟とは関係なく決起していた。ところが、その「関係なかったこと」も邦字新聞は一切触れていない。
 ともかく新聞の基本を外した記事の作り方だ。ところが、これが、その後長くコロニアに定着、いわゆる認識派史観となってしまった。
 因みに「コロニア」は「邦人社会」に代わって、戦前末期から一部で使用され始め、戦後、一般化した言葉である。

「あいまいな態度とった」と宮坂国人を批判

 下元健吉は、もう一つ、対外関係でマズいことをしてしまっている。
 連続殺傷事件が終わって暫くしてのことである。一夜、コロニアの将来を談ずる有志の集まりが開かれた。
 そこには、コロニアや認識運動の指導者格だった人々が出席していた。席上、下元が開口一番「終戦この方、あの忌まわしい混乱のさ中を通じて、祖国の実情解明について極めてあいまいな態度を保って、時局の紛糾を防止しようとしなかった人が、この席に一人居る。この人は今後、この様なコロニアの将来を論じる場に出ることは、一切遠慮して貰いたい」と言って一座を見回した。
 この発言に、皆、ビックリした。下元が非難しているのは宮坂国人であった。宮坂は、戦前、日本政府系のブラ拓の代表として、国策移住地を建設した人物である。その宮坂がブラ拓に銀行部をつくった時、日本の本部の平生釟三郎理事長から「銀行は命がけの仕事、その覚悟があれば、やってもよろしい」と釘をされていた。
 幸い銀行部は上手く行き、独立、南米銀行と改称した。が、直後、戦争が始まりバンコ・ド・ブラジルの管理下に置かれた。経営陣はブラジル人に入れ代えとなり、資本も内国化させられた。
 その南銀の経営は終戦時には破綻状態にあった。宮坂は、それを買い取って再建しようとし、出資者を募集中であった。が、募集対象はコロニア以外なかった。
 しかしコロニアは、この時点では大多数が未だ戦勝派、信念派であった。そこから株主を募るためには、認識運動には目を潰らねばならなかったのである。平生との約束を守るためには命をかけねばならなかった。
 が、下元は鋭すぎる一言を吐いてしまった。しかもコチアと南銀との取引を拒否した。絶交したのである。(つづく)

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