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特別寄稿=日本語教育推進法基本方針の閣議決定に思うこと=ブエノス・アイレス在住 秋山 郁美

自宅で勉強する子供たち

コロナ直前にアルゼンチンへ家族で赴任

 今日学校でどんなことやったの?
 わからない。
 宿題はある?
 わからない。
 明日の予定は?
 わからない。
 明日の持ち物は?
 書いてきた。
どれどれ・・・。(文字が読み取れない)。
 教科書は?
 ない。

 一日中わからない言葉に溺れ疲れ切って帰ってきた子どもたちに、学校の様子を聞いても何も手が出せない。クラスメイトのお母さんも、困ったら言ってねと連絡をくれるけれど、すべてがわからなすぎて質問のしようがない。週末はゆっくり休んでほしいが日本の勉強もちらりと思い出してもらわなければ・・・。
 わかってはいたけれど過酷な日々が続くな、と思っていた矢先、新学期が始まってたった3週間で学校が閉鎖になった。新型コロナの影響だ。
     ☆
 パソコンを使った遠隔授業が始まった日から私は、文字通り朝から晩まで付きっきりで3人の娘の授業や課題を手伝っている。
 特にスペイン語も英語もいちばんわからない8歳の三女の授業中は横に張り付きコソコソと先生の言っていることを説明する。三女は負けず嫌いで果敢に発表するが、思うように伝わらず聞き取ってもらえない。悔しくて目に涙をためている。
 先生は「Don’t worry. No te preocupes(心配しないで)」と繰り返すが、悔しさが爆発し画面を睨みつけてからついに突っ伏してしまう。
 11歳の二女は多少のスペイン語のやりとりができるので授業にはひとりで参加するが、5年生の授業となると、歴史やスペイン語の読み取りの内容はぐっと難しくなる。
 三女の授業の最中や合間に聞きに来るが、私は唸った末に「辞書を見てごらん」。「日本語で調べてみたら?」としか言えない。課題は、自分で調べてまとめるなど内容が個人に任されることが多く、何が正解かもわからない。
 13歳の長女はエクアドルで小3まで過ごしたので、簡単な読み書きまではできる。友達にも相談しているようで、私に「わからない」と言ってくることもほとんどない。
 英語の授業を覗いてみた。オンライン授業に「出席」だけし、自分の音声と映像をオフにして別のことをしているではないか。先生に簡単な英語で質問されてもスペイン語で返している。授業の後で、長女には別内容の課題が出された。
 怒り大爆発で「どうしてちゃんと参加しないの」と聞くと、「もうみんなが進みすぎてて聞いてても1ミリもわからないから意味がない」と言う。「1ミリもわからなくてもせめて紙を出して何度も出てくる単語を書いてみたら」などともっともらしいことをアドバイスしつつ、口の中が苦い。
 確かに1ミリもわからない。中学生は課題がぐっと多く、朝から夜11時までずっとパソコンに向かっているような日もあり担当の心理教育士に課題の量を調節してもらうこともある。

日本語教育推進法がそのまま進められれば最強

日本のカリキュラムも忘れずに

 そんな日々が3か月間続いている。先日、ニッケイ新聞の深沢さんから、日本で日本語教育推進法の基本方針が閣議決定した記事が送られてきた。
 日本語教育推進法が施行された昨年、私は日本にいて、やっと日本で困っている外国ルーツの子たちを助ける法律ができた、でもどうせなかなか進まないんだろうなあという気持ちでいた。
 条文と基本方針を読むと、いいことしか言ってない。当たり前だが、施行から1年、日本国内はもちろん世界の日本語教育の関係者まで意見を出して練りに練られた方針なのだから、隙がないに決まっているのだ。
 少し内容を紹介すると、
◎外国籍児童生徒の就学状況の把握と就学機会の確保を目指す。
◎日本語を教えるための指導担当教師の増員や指導補助者の養成。
◎中高生の進路指導、生活指導。その際母語・母文化の重要性や保護者への教育に関する理解促進について留意すること。
◎障害がある子も適切な教育を受けられるよう特別支援教育の担当教師が外国人の子どもに係る支援について学べるようにすること。
◎夜間中学設置(全都道府県・政令市に少なくとも1校)。
◎日本人を含むすべての子どもたちが、我が国の言語や文化に加えて、多様な価値観を理解し、互いに尊重しながら学び合える環境づくり。
◎ⅠCT(情報通信技術)を活用した遠隔教育等の先進的取り組み支援。等々。
(第2章 日本語教育の推進の内容に関する事項 1日本語教育の機会の拡充 ⑴国内における日本語教育の機会の拡充 ア 外国人等である幼児、児童、生徒に対する日本語教育より)
 これがそのまま進められたらいいなあ。羨ましい。日本最強だ。正直そう思う。

日本でブラジル人児童を支援してきた縁

スペイン語でラテンアメリカの勉強

 何の因果か、これまで、日本では公立学校に通うブラジル人児童の宿題の手伝いをしたり、ブラジル人学校やアジア人の留学生に日本語を教えたり、日本語が苦手な小学生の取り出し授業をしたり、あちこちのブラジル人学校や日本語教室を取材したりと、なぜか外国に住む子どもに関わることをしてきた。
 家族で偶然南米に4年住み、外国で暮らしたり勉強したりする大変さを感じ、帰国すると楽な反面息苦しさも感じた。
 今年1月から再び「外国で子どもを育てる親」になったが、今回は子どもたちも大きくなっており、冒頭のようなシビアなわからなさにもがいている。学校は外国人に理解があり、言葉のサポートもあるというところを選んだ。
 逆に言うと、入学試験があります、成績は厳しくつけますというところは無理なので消去法とも言える。
 しかし、言葉の支援と言っても、決まったカリキュラムがあるわけではなく、先生が臨機応変に特別授業をしてくれるくらいで、とてもありがたいがとても足りない。
 クラスメイトと同じ授業も出席しているので課題も同じように出されるが、何倍も時間がかかるし、難しすぎてやっても意味がないように思えることもある。
 幸か不幸か遠隔授業になり、私は娘たちの専属支援員となった。買い物も昼食を作るのも授業次第という日々だが、よかったことが大いにある。娘たちが何をやっているかわかる、多少でも手伝いができる、どのくらいわからないかわかる、わからないことを準備することができる。
 学校に通うのとは違ってスペイン語を浴びるように聞くことはできなくなったが、もしかしたら最初の期間はこれでよかったかもしれない、と夫とも話すようになった。

言葉の支援以外に大切なもの

 入学するときに期待していたほどの言葉の支援というのはないが、同じくらい重要な支えになっていることがあって、とてもありがたいと思っている。
 それは、入学当初から遠隔授業になってからも感じていることなのだけど、ひとことでは表せない。温かさでもあり、緩さでもあり、優しさでもあるが、ひとりだけ特別視されているわけではなく、先生も子どもたちも全員がお互いに向き合って立っているような、安心感。そこに自分も存在している確信。
 例えば、最近ようやく「Que tengo que hacer?(何をすればいいの)」を覚えたばかりの三女だが、日本仕込みのノート取りは得意で、先生が書かなくてもいいと言っても片っ端から画面に出たものを写している。
 先日クラスメイトのお母さんから連絡が来て、きょうのノートの写真を送ってほしいと言われた。どうやら彼女がノートをきっちり書くことは他の子も知っているらしい。三女にそれを伝えると喜んで、翌日からノートをとり終わると「フィニッシュ!」と高らかに宣言するようになった。どこで自信が生まれるかわからないものだ。
 二女は算数がもともと好きなので、算数オリンピックのクラブに誘われて入ったらしい。一学年下げて入学している意地があるのか、上の学年の問題まで手を出している。普通の授業で手いっぱいどころかまったく追いついていないのに、いい度胸だ。
 音楽や絵などのアートが得意な長女は、音楽の授業でグループを掛け持ちしたり、何かと編集のまとめ役を頼まれたりしている。本人は仕事の量が不平等だとぼやくこともあるが、好きなことをたくさんやっているので嬉しそうだ。
 遠隔授業中でも、課題は各教科ともグループで提出するものが多く、誰かと組み、数人で何をするか考え、役割分担をすると、どうしても仕事の内容や量に偏りができる。偏りと言うよりはそれぞれできることを担当して良いものができればいいという考えなのだろう。
 そういう、それぞれができることをすればいいというこの国の習慣が、娘たちが言葉が苦手という1つの面でしょげることなく、好きなことや得意なことを認められ自信を持ち、いろいろなことを学ぶ意欲になっている。そうでなかったら、自分だけできない、ノートをとるのは意味がない、つまらない、のマイナスループだっただろう。私の気持ちも折れていたかもしれない。言葉の支援と存在意義を感じることは同時にあったほうがいい。

多様性を無視した教育がどうして危険か

勉強を教えあう姉妹

 存在意義を感じること、それぞれできることを担当して良いものを作る、というのは、最近よく聞く「多様性」に通じる。そうだ、あの説明が難しい緩い安心感は、多様性という伸縮力抜群のネットに支えられているのだ。
 「基本方針」へ戻ると、ここにも「多様」という言葉が入っている。
 「日本人を含むすべての子どもたちが、我が国の言語や文化に加えて、多様な価値観を理解し、互いに尊重しながら学び合える環境づくり」
 ふむふむ、もっともだ。でも、こう読むと、日本語とその他の言語、日本の文化と海外の文化、日本の価値観と海外の価値観、という比較をしているように感じるのは私だけか。そうなるとちょっと意味が違ってきてしまう。
 できれば、外国人がいなくても、多様であることを意識してほしい。外国人がいたら、日本人と違うから多様なのではなくて、人間ひとりひとり性格や得意なこと苦手なこと、好きなこと嫌いなこと、学ぶ方法や速度、あらゆる点で多様だ。
 これまで多様性を意識しなくてもうまくいってた、困ったことはない、教えられた通りでよかったと思う人もいるかもしれない。外国人に日本語を教えるなら勝手にやったらと思う人もいるだろう。でも今日本に生きる子どもたち、見放されてきた子どもたちは、あなたではない。
 これから外国ルーツの子どもたちも日本が責任を持って育てていく決意をしたなら、支援の向かう先を、これまでの日本の教育に追いつかせることにしないでほしい。
 どの子も一緒に日本の多様な教育を作っていく一員だ。子どもという希望が増えるのだ。

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