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知っておきたい日本の歴史=徳力啓三=(6)

『天子摂関御影』の清盛肖像(南北朝時代)(藤原豪信/Public domain)

第1節 武家政治の始まり

 保元の乱(ほうげんのらん)とは、後白河天皇と崇徳上皇との間の激しい対立からおこった騒乱です。これに、勢力争いをしていた藤原氏の兄弟や、有力な武士たちが二手に分かれて加担し、戦いが始まったのは1156年でした。戦乱は小規模だったが、都を舞台とした天皇・上皇の争いの解決に、武士が大きな力を発揮した。
 この乱は武士が政治への発言力を増やしていくきっかけとなった。藤原氏出身の僧・慈円が書いた『愚管抄』(ぐかんしょう)という歴史書では、この乱から「武者の世」に移ったとしている。
 保元の乱ののち、勝者の後白河天皇を支えた貴族の間の勢力争いから、1159年に再び戦いが起った。これを平治の乱(へいじのらん)という。この乱で、平清盛が源義朝を破り、平氏が武士の中でももっとも有力な勢力となった。
 平清盛は後白河上皇との関係を深め、武士として初めて朝廷の最高位である太政大臣にまでのぼりつめた。また、娘や妻の妹を、宮中に入れ、朝廷と結びつきを深めた。一族も多数、朝廷の高い地位につき多くの荘園を手にいれ、全国の半分近くの地方をおさえた。
 さらに清盛は、大輪田泊(おおわだのとまり= 現在の神戸港)を整備して、宋(907年に唐が滅びたあと内乱を経て960年に建国した中国の王朝)の商船を招くなど、日宋貿易に力を尽くし、莫大な利益をあげた。
 こうして平氏は、「平氏にあらずんば人にあらず」と言われるほど栄えた。しかし平家の栄華も長くは続かなかった。平氏はやがて後白河上皇との対立を深め、上皇の院政を停止して、清盛の娘が産んだ1歳の安徳天皇を皇位につけた。後白河上皇の皇子である以仁(もちひと)王がこれに反発し、平氏の追討を呼びかけた。
 平氏の支配に不満を持つ武士が、各地で次々に兵をあげた。平治の乱で討たれた源義朝の子の源頼朝は、鎌倉を拠点として関東の武士と主従関係を結び、勢力を伸ばしていった。

源平合戦の壇ノ浦の戦い(Unknown author/Public domain)

 頼朝は朝廷の命をうけ、弟の義経らを派遣し、平氏の討伐に向かわせた。義経は幼い安徳天皇とともに都から落ち延びていった平氏を各地の合戦で討ち、1185年ついに壇の浦(関門海峡の東端)で滅ぼした。これら源氏と平氏の一連の戦いを、源平合戦とよぶ。
 わが国ではじめての全国規模の戦乱だった。

伝・源頼朝肖像(Fujiwara no Takanobu/Public domain)

 平氏滅亡ののち、源頼朝は1185年、地方の国ごとに、守護をおき、荘園や公領には地頭を置くことを朝廷に認めさせた。守護は、郡司や警察の仕事につき、地方の政治にも関与した。地頭は、年貢の取立てや、土地の管理などを行った。
 一方義経が兄である頼朝と対立し、平泉の奥州藤原氏のもとに逃れると、頼朝はその勢力を攻め滅ぼし、東北地方も支配下に入れた。
 1192年、頼朝は、朝廷より征夷大将軍に任命された。頼朝は鎌倉に、簡素で、実際的な武家政治の拠点を築いた。
 これを鎌倉幕府(かまくらばくふ)と呼び、鎌倉に幕府が置かれた140年間を鎌倉時代という。鎌倉幕府は、将軍とその家来の武士である御家人の主従関係によって成りたっていた。
 御家人は将軍から先祖伝来の領地を保護されたり、新しい領地を与えられるなどの御恩を受け、そのかわり将軍に忠誠を誓い、戦の時には命をかけて戦って、奉公に励んだ。頼朝の死後、幕府の主導権をめぐる争いで有力な御家人が次々に滅び、頼朝 の妻・政子の生家である北条氏が実権を握った。
 源氏の将軍は、3代目の実朝が暗殺され、途絶えた。そののち、京都から藤原氏や皇族などをむかえ、名ばかりの将軍にした。家柄は一御家人に過ぎなかった北条氏は、将軍を補佐する執権の地位について、幕府の政治を動かした。
 その頃京都で、院政を行っていた後鳥羽上皇(1180 – 1239)は、朝廷の勢力を回復するため、1221年、北条氏を打つように全国の武士に命令を出した。
 しかし多くの武士は幕府に結集し、またたくまに朝廷軍を打ち負かし、京都を占領した。これによって後鳥羽上皇は、隠岐の島に移された(承久の乱)。そののち、幕府は京都に六波羅探題(ろくはらたんだい)を置き、朝廷を監視し、交渉にもあたらせ、さらに西日本の御家人を監督した。
 執権となった北条泰時は、1232年、武家社会の慣習に基づき、初めての武家独自の法律である御成敗式目(ごせいばいしきもく=貞永式目とも言い、武士の間の紛争を避けるための法律)を定めた。これは、御家人に向けてその権利や義務、裁判の基準を解りやすく示し、その後の武士の法律の手本となった。


《資料》

 末法思想とは釈迦の入寂後、2000年が過ぎると教えは衰え、現世には救いがなくなるという厭世思想。それゆえに自力ではなく、阿弥陀仏の力による救済(他力本願)される思想が生まれた。阿弥陀佛とはインドに生まれた「無限の寿命」を持つ仏のことで、西方の極楽浄土からあまねく人々を見守り、救うといわれている。


《補講》 仮名文字と女流文化

 9~10世紀になると、私有地である荘園が広がって、国司や郡司の権限が及ばなくなった。都でも地方でも盗賊が出没し、治安が乱れた。朝廷でも中央の貴族たちは、武芸を職業にする者たちによって、宮中や貴族の屋敷を護衛した。
 また地方でも、国司として赴任しそのまま住みついた一族や、地元の豪族の中に、土地を守る為に自ら集団で武装する者があらわれた。こうして、武士が登場した。
 武士は、皇族や中央貴族の血統をくみ、また指導者としての能力に優れたものを棟梁として主従関係を結んで武士団をつくった。中でも、天皇の子孫とされる源氏と平氏がひきいる武士団が、特に有力だった。
 10世紀の中ごろ、関東の豪族・平将門と瀬戸内地方の国司であった藤原純友が、武士団を率いて叛乱をおこした。これらの叛乱をしずめるためにも、中央の貴族は、武士の力を頼らなければならなかった。
 11世紀のなかばすぎ、170年ぶりに藤原氏を外戚を持たない後三条天皇が即位し、みずから政治を行った。これによって藤原氏の勢いは抑えられた。天皇は藤原氏の荘園を含む多くの荘園を整理する法令をだした。
 その流れを受けついだ白河天皇は、14年間在位したのち、幼少の天皇に皇位を譲り、白河上皇として天皇の後ろだてになって政治の実権をにぎった。この政治を院政と言う。
 摂関政治は、天皇の母方の一族が実権を握る政治だったが、院政では、天皇の父や祖父が、朝廷のしきたりにとらわれない政治を行なった。鎌倉幕府成立までの約100年間を院政期というが、その後も院政は続いた。
 院政が始まると、白河上皇は、平氏を中心とする武士団を、「北面の武士」として院の警護に重く用いたので、武士の台頭をうながした。11世紀後半には、東北地方で2回にわたって戦乱がおこり、関東の武士を率いてこれを沈めた源義家が、この地方の武士の信望を集めるようになった。


《資料》 武家政治と将軍

 征夷大将軍とは、朝廷の支配の及んでいない地方を征伐するために、天皇から任命された、軍隊の総指揮官を指す名称であった。鎌倉幕府以降は、武家政権の首長の称号となり、単に「将軍」と呼ばれるようになった。将軍の住居のあるところを幕府と呼んだ。それが転じて、武家政権を示す言葉となった。鎌倉幕府では9人の将軍、室町幕府と江戸幕府では夫々15人の将軍が任命された。将軍がいた時代を武家政治といい、約700年続いた。


《補講》 武士のおこりと鎌倉幕府

 13世紀の始め、モンゴル(蒙古)の高原で、ジンギス・ハンが遊牧民の諸部族を統一し、モンゴル帝国を建てた。
 モンゴル帝国は、無敵の騎馬軍団を各地に侵攻させ、またたくまに西アジアから中国まで、ユーラシア大陸の東西にまたがる広大な帝国を築いた。この動きに、ヨーロッパ人もおびえ、モンゴル人をおそれた。
 モンゴル帝国第5代目のフビライ・ハンは、大都(現在の北京)に都をつくった。フビライ・ハン(1215 – 1294)は、チンギス・ハンの孫で、国号を元とし、皇帝を名乗った。
 フビライは、東アジアへの支配を拡大し、モンゴル帝国は広大な領土を持ち、その一部が中国であった。
 現在の北京をモンゴル帝国の首都と定め、モンゴル人の国とした。フビライは独立をたもっていた日本にたびたび使いを送り、服属するよう求めた。
 しかし、朝廷と鎌倉幕府は、一致して、これをはねつけた。幕府は、執権・北条時宗を中心に、元の襲来に備えた。
 1274年、元・高句麗連合軍は、対馬、壱岐を経て、博多に襲来した(文永の役)。
 更に7年後に大船団を仕立てて日本を襲った(弘安の役)。
 日本側は、略奪と残虐な暴行の被害を受け、元軍の新奇な兵器にも悩まされた。

元寇のとき、騎兵を密集させて集団で突撃する日本軍『蒙古襲来絵詞』前巻・絵5・第17紙(詞書:竹崎季長(自筆の可能性あり) 絵師:(伝)土佐長隆・土佐長章/Public domain)

 しかし鎌倉武士はこれを国難として受け止め果敢に戦った。元軍は、のちに、「神風」と呼ばれた暴風雨におそわれ敗退した。こうして日本は、独立を保つことができた。2度にわたる元軍の襲来を元寇(げんこう)という。
 こののち、フビライは数度にわたって日本侵攻をくわだてたが実現しなかった。
 元との戦いで、幕府を支える御家人は多くの犠牲をはらった。
 しかし、外敵との戦いであったので、新しい土地を確保できず、幕府は充分な恩賞を与えることが出来なかった。
 また「文永の役」のあと、幕府は御家人に防塁の建設や異国警護番役などを命じるなど、外敵への備えを強化した。
 これにより御家人には重い負担がのしかかり、幕府に対する不満がつのった。この頃に御家人は、兄弟による分割相続の繰り返しで、領地が次第に狭くなり、生活の基盤が弱くなっていた。
 その上に商工業の発達で武士も貨幣(銅銭)を使うことが多くなり領地を質にいれたり、売ったりするものも現れた。幕府は御家人を救うため、徳政令をだして、領地をただで取り戻せるようにしようとしたが、お金を御家人に貸す人が居なくなってしまい、かえって御家人を苦しめる結果となった。


《補講》元寇と朝鮮半島

 1274年と1281年の2回にわたって、モンゴル帝国は日本を襲いました。初回は3万人、2回目は14万人の兵隊が日本に攻め寄せました。
 初回の襲撃で、博多湾に入ってきた元軍を日本の武士は勇敢に迎え撃ち、命を惜しまず戦いました。敵は夕暮れが近づくと、船に引き上げ、翌朝には撤退してゆきました。2度目の襲来では、長崎県の平戸に結集し、博多湾を目指して伊万里湾の入り口まで迫ってきました。
 これに対して日本の武士団は、全力を持って船で元軍の大船団に挑みました。一昼夜に及ぶ戦闘で、大きな被害を受けた元軍は、その場に釘付けとなりました。
 その直後、台風が元軍を襲い、大部分の船が荒波に飲み込まれていきました。2度にわたって襲来した元軍は、日本を占領することが出来ませんでした。
 最初の元寇で元軍は、対馬、壱岐や博多で民家に火をかけ、老人、女性、子供の区別なく残忍な仕方で殺害したり、捕虜としてつれさりました。
 古代より、朝鮮半島は、そこを通じて大陸の文化が日本に入ってくる懸け橋でした。しかし朝鮮半島から大軍が襲来した元寇の恐怖の体験は、日本人の朝鮮半島に対するイメージを変えました。
 のちの明治時代に、政府は「朝鮮半島がロシアの勢力圏に入ると日本の安全が脅かされる」と警戒心を抱きました。そこにはこの元寇の体験が陰を落としていたのかもしれません。

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