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中島宏著『クリスト・レイ』第59話

 ただ、日本人移民の場合は、文化性や言語、あるいは人種というものの隔たりが大きなものであった分、その障害物を超えるのに、それなりの時間がかかり、それなりの苦難が伴ったことは事実であろう。
 もっとも、ブラジル人であるマルコスにとっては、その辺りのことは直接見えるものでもなく、その内面を感じ取ることも不可能であった。日本人の持つ特殊性という点には気付いても、それがどこから来るものであるかということまでは想像できない。そこまで理解できるようになるには、彼は日本語をさらに勉強するだけでなく、もっと日本人との付き合いをも深めなければならないことになる。
 ただ、少々厄介なのは、見かけ上は何でもない日本人移民の社会だが、そこには目に見えない壁のようなものが存在するという点であった。マルコスがこのゴンザーガ区の日本人たちと付き合って、いわゆる親しい友人であるアミーゴとなっても、そこでは、彼はいつまでもガイジンという枠からは出られないというような雰囲気が常につきまとった。それは特に、男女の間の問題に強く表れるという傾向を持っていた。そして、当然それは、マルコスとアヤとの付き合いにも微妙な影響を与えることにもなっていった。
 無論、アヤはそのような意識を持つタイプではないから、まったく問題ないのだが、周りの者たちが二人の付き合いに対して抵抗を示すという空気が生まれつつあった。マルコスはアヤに対して、一度も個人的な心情を明かしたことはないし、間接的にせよそのような話題を口にしたことはない。アヤの方も今まで、そういう気配すら見せたことがない。
 むしろこの場合、マルコスの方が少々期待外れという感が強く、その辺りを確認したいという思いが強いのだが、アヤは一向にそれに気付いた素振りは見せない。あるいは彼女は、そういう日本人社会のことをいつも念頭に置いてマルコスと交際しているのかもしれない。不必要なうわさを立てられないためにも、一種の防御手段というふうに考えられないでもない。
 しかし、アヤは彼女の方から一切、そのような話に触れようとはしなかった。その点に関しては、アヤの方がマルコスより用心深く、世の中のことがもっと分かっているということなのかもしれなかった。
 とにかく、マルコスとアヤのデートは続いていったが、少なくとも表面上はそのことが、恋愛感情に昇華していく気配を見せることはなかった。もっとも、そうだからといって、マルコスのアヤに対する慕情が弱まっていくということにはならなかったから、彼にとってそれは、酷な状況とさえ言えたであろう。 
 そのような感情を抑えつつ、マルコスはアヤとのデートを重ねていったのだが、しかしそれは決して無駄に時間を消費するということではなかった。彼の中にある感情は凍結するようにして心の奥に仕舞い込み、話題をもっと現実的な問題や、これからの人生に関する問題に焦点を合わせていった。
 そういう形で、アヤの持っている考え方を知ることも、これはこれで結構、興奮を覚えるものでもあったし、ある意味でそれは、アヤの内面の一部に入り込むことに通じるものでもあった。そして、そのことがマルコスにとって、大きな満足感を得られる結果ともなっていった。

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