ホーム | 日系社会ニュース | アジア系コミュニティの今(4)=サンパウロ市で奮闘する新来移民=大浦智子=韓国編〈8〉 韓国の政情不安を危惧して移住

アジア系コミュニティの今(4)=サンパウロ市で奮闘する新来移民=大浦智子=韓国編〈8〉 韓国の政情不安を危惧して移住

1990年頃のバンさんのご両親と子どもや孫たち

1990年頃のバンさんのご両親と子どもや孫たち

 バンさんの両親は韓国で立派な家もあり、父親は米軍基地で高給の職を得ていたが、パク・チョンヒ(朴正煕)政権の政情不安を危惧して移民を決意した。
 当時は家族でブラジルに来るのには家一軒分の旅費が必要で、所有していた家を売って資金を用意し、韓国を飛び立った。バンさんは「自分だけは韓国の家に残る」と主張したものの、家族の決断に従うしかなかった。
 「私たちがブラジルに来た時代は、海外への移民は国を捨てた人というような眼で見られました。だから、自分たちも韓国には戻れるという気持ちは持てませんでした」
 ブラジルに来て最初に暮らした場所は、現在はアフリカ各国やハイチからの移民が多いリベルダーデ地区のグリセリオ街すぐ近くの一軒家だった。今よりも日本人街の様相を呈していた同地区は、当時、コンセリェイロ・フルタード大通りを境に坂の上の方は日本人、下の方は韓国人が暮らしているというような印象だったという。
 戦前戦後の日韓間の悪感情が微妙に引きずられていた時代で、両国のコミュニティ間で交流はなかった。主に衣料品の商売に携わる韓国人と、それ以外の商売が中心だった日本人は利害対立もなく、顔立ちも似ていたため、個人的には日本人とも付き合っていたと思い出す。
 リベルダーデ地区にあったポルトガル語を勉強するための語学学校や大学受験のための塾に通っていた時は、ポルトガル語について行けなかったバンさんを日系人が助けてくれた。

1970年頃のリベルダーデ地区での韓国人の商店(“45 anos de imigração Coréia Brasil”より)

1970年頃のリベルダーデ地区での韓国人の商店(“45 anos de imigração Coréia Brasil”より)

 「ブラジル人からはアジアの国と言えば『日本』しか返ってこない時代で、韓国から来たと言っても誰も知らず、『日本の横』といつも説明していました」と苦笑いする。
 ポルトガル語にも次第に慣れ、友人もでき、バンさんはブラジルに来た始めこそ韓国への郷愁もあったが、ブラジル生活で特に悩んだことはなかったという。
 初期の韓国人移民にはカトリック教会を通じた移民もいたが、次第に韓国人の通うプロテスタントの教会も設置されるようになり、現在では大小含めて韓国人の集まる48のプロテスタント教会と2つのカトリック教会が認められるという。
 「韓国人移民は日曜の礼拝後などに全員でレストランに行く習慣があり、日本食レストランが韓国人でいっぱいの事もありました」。好きな日本食『千代(せんだい)』も身近にあり、中華『一條龍』など、バンさんが移住した当初から長年リベルダーデ地区で行きつけとなったレストランもあった。
 その様にリベルダーデ地区でバンさん家族は約4年を過ごし、やがて縫製や衣料品卸のメッカであるブラス地区に引っ越した。1979年に母親は正式に店をオープンし、バンさんもその手伝いを始めた。(つづく)

 

 

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