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特別寄稿=東日本大震災から10年=東京五輪は原点を忘れずに=アチバイア在住 中沢宏一(元宮城県人会長)

伯国マスコミの問い合わせにてんやわんや

2011年3月20日、石巻市西浜町の上空から内陸に向かって石巻工業港を写した航空写真。画像上部は海ではなく冠水した陸地(1等広報官 Ben Farone によるアメリカ合衆国海軍写真のリリース)

 東日本大震災から10年経ちました。まず、お亡くなりになりました約2万人の犠牲者の御霊に対して、ご冥福をお祈り申し上げます。
 つい先日の2月13日、福島県沖でマグネチュード7・3の大きな地震があり 震度6強を観測しました。この地震が大震災の余震とのことですからあの巨大地震の大きさがわかります。
 我々ブラジル在住者は、東日本大地震をNHKなどのテレビで知ることになりました。防波堤を乗り越え、市街地を呑み込み、松林を倒し、大型船が流れ、津波が田んぼや川を遡る様は、この世の出来事とは思えない凄まじさで、唖然として言葉が出ない状態で見ていました。
 気仙沼の実家・親戚に電話しても通じない、宮城県庁も応答なし、早朝宮城県人会の役員に連絡し、対策を話し合っていたら次々と電話が鳴る。
 日本に住む日系人の安否の問い合わせ、そして多くのブラジルのテレビ局、及びマスコミからの取材、テレビ局の車が横付けされ、慣れないマスコミへの応対と館内はテンヤワンヤ、何せ答えようにもテレビからの情報以上のものはなし。ウロウロするだけでした。
 役員の中で被災地で生まれ育った者は私だけでした。その他の役員は海のことは知らない。私は日本地図を広げ、被災地の説明から始めました。気仙沼市唐桑町の生家の裏からは岩手県側が見えます。
 ハワイのダイヤモンドヘッドのような綾里岬が太平洋に突き出ています。大船渡湾、ウミネコ繁殖地の広田岬と椿島、そして陸前高田市がある広田湾広がっています。表からは気仙沼湾と大島、少し歩くと南三陸町の志津川湾、そして牡鹿半島その先端に三角帽の金華山が見えます。
 私は気仙沼高校には船で40分かけて3年間通学しましたので海岸の地理感覚はあるし、津波被害を受けた地帯に住んでいる親戚知人同級生など思いながら、なんとか応対することが出来ました。

ふるさと気仙沼湾は火の海に

 安否を心配される方には先ず日本の住所を聞きました。ほとんどは海岸から離れていましたので「津波の心配はないです」と安心してもらいました。宮城県女川町の水産加工場で親族が働く方から悲痛な電話がありました。一週間後、県庁を通して全員無事の知らせがあり安堵してもらいました。
 数日後、私の親戚は全員無事との知らせがありましたが、海岸の近くに住んでいた兄の家が流されました。二つ上の兄は50年間鮪船に乗り、ペルーを基地としていた時ブラジルに来てくれました。下船して水産加工場で働いていた時、地震にあい、自宅に帰る途中、津波に車ごと流されました。運良く海水が入らず、30分ほど流されていましたが、二本の松の木に瓦礫と一緒に引っ掛かり一命を拾いました。寒いので車のシートを切り取って防寒具を作り、一夜を過ごしたそうです。家族4人は高台に避難して助かりました。

2011年3月18日、岩手県上閉伊郡大槌町の吉里吉里地区。マグニチュード9・0の地震とそれに伴う津波の一週間後の航空写真(3等広報官ディラン・マコードによるアメリカ合衆国海軍写真のリリース)

 同級生が老後のため新築した3階建ての家が流されたとか、長兄が愛用していた小型船を置いてあった浜を津波が通り過ぎ無事だったとか、「森は海の恋人」活動で著名な同級生の畠山重篤氏の家は、唐桑半島の付け根の波静かな湾にあって、カキの養殖には最適な所です。
 自宅は急斜面を登って海抜30mの敷地にあるが、その近くまで津波が登り、その奥の方には40mに達したそうです。陸前高田市の海水浴場には何度も行きました。そこの松林は日本百景に指定された景勝地でした。約7万本の松がありましたが一本の松だけが残りました。奇跡の一本松です。
 気仙沼湾は火の海となりました。原因は湾の入口の燃料タンクが流され、引火して燃え上がったのです。気仙沼湾の中ほどに大川が流れ込み その沖積地があります。昔はそこには建物が無かったのですが、高度成長期に開発されて、あげくの果てに燃料タンクを設置したのが流され大火災となりました。

歴史的に繰り返されてきた地震と津波

 東日本大震災は岩手・宮城・福島沖の地震が連動して起こり、北海道・青森・茨城・千葉県の東日本全体の海岸に津波が押し寄せました。
 そして福島原子力発電所の爆発によって、広範囲に核物質が飛散して大惨事となりました。非常用デイーゼル発電機が海側にあって津波を被り停電し、冷却出来なかったのが致命的でした。海から反対に設置して置けばと悔やまれます。
 テレビでは家屋財産を失った被災者が体育館等での避難生活が放映され、新聞でも連日報道されました。
 ブラジル日系社会では岩手・宮城・福島の県人会が中心になって合同慰霊祭が執り行われました。そして全伯的に被災地を応援する浄財が集まり、見舞金として送金しました。合同追悼式は一年/三周年/五周年と行われました。
 大地震の原因は太平洋プレートがユーラシアプレートに潜り込むエネルギーが蓄積され、そのはね返りにより生じます。大震災と同じ規模の地震は1千年に一度と言われ、869年の平安時代の貞観地震津波の痕跡が福島及び仙台平野に残されています。
 江戸時代初期の慶長の連動は6年の間隔がありました。1605年の慶長南海房総と1611年の慶長三陸地震津波が記録されております。伊達政宗公がヨーロッパに派遣した支倉常長慶長遣欧使節が1613年に石巻港から出航しています。牡鹿半島月が浦で500トンの船を自前で建造しましたので慶長地震の津波は仙台湾での被害は無かったようです。

2011年3月17日、岩手県釜石市鵜住居地区で生存者を捜索する愛媛県今治市の消防隊員(Master Sgt. Jeremy Lock, U.S. Air Force)

 近年の三陸地震津波は明治29(1896)年と昭和8(1933)年、そして2011年と三度起きております。その間に1960年チリ地震津波がありました。明治三陸津波から昭和三陸津波まで37年、東日本大震災まで78年、平均すると約60年に一度来ていることになります。
 明治三陸地震津波はマグネチュード8・3と大地震でしたが、最大震度が4と揺れが少なく、今のような津波の大きさを知らせる警報がなかった時代でしたから、逃げ遅れて2万7122人の死者を出しました。

高1で経験した昭和三陸地震津波

 昭和三陸地震津波はマグネチュード8・1で死者3008人でした。昭和35年のチリ地震津波は地球の反対側から太平洋を渡ってきました。周波が長く徐々に水位が上がり、徐々に下がる津波でした。それでも死者142人、田んぼに漁船が横倒しされていました。
 私は高校一年生で高台から養殖用のイカダが内海へ外海へと流れるのを見ていました。稀なおとなしい津波でした。因にチリ地震は観測史上最大でマグネチュード9・5東日本大震災のなんと5倍のエネルギーなそうです。
 そのような津波を体験した後、東京オリンピックを経て高度成長期入りました。事業拡張、宅地造成と昔は放置していた所、津波が必ず来る所の開発が進んで行きました。
 三陸海岸はリアス式で、湾が深く入り込んでいます。半島には平地が少なく、海から直ぐ山ですから、5分、10分で高い所に避難出来ますが、湾の奥には川があり、平地には魚市場と水産加工場、そして市街地があります。
 昔の市街地は津波から直ぐ高台に逃げられる範囲の所にありました。リアス式ですから10mの津波が入ると20m、30mと膨れ上がり登って行きます。川に沿って奥まで達します。そのような地域ですから古くからある神社仏閣、それに学校病院等は高台にあります。
 そして由緒ある船主網元の屋敷は海を見下ろす高いところにあって、手の行き届いた庭園から海を眺められる絶景地にありました。明治・昭和の津波に見舞われていたのに、唐桑半島の突端には津波体験館があるのに 津波への備えを怠っていたことは事実です。災害は忘れた頃にやって来ました。

ボランティアと復興

 津波直後の状況はテレビで毎日放映されました。あの雪の降る寒さの中、被災地では懸命な救出活動と避難民の救援活動が続けられていました。世界中の人々はそのような厳しい中でも紛争や暴動又は略奪行為が起きず、他人を気づかい 譲り合いながら、規律正しい日本人の行動を称賛しました。
 国・県・市町村が対策本部を設置して住民と連携し、全国から救援物資が届けられました。多くのボランティアが全国から駆けつけ、ブラジル日系人もボランティアの団体を組んで参加しました。自衛隊の活躍が各地で目覚ましく、アメリカ海軍は航空母艦を現地に停泊させて救助活動を行いました。

2016年3月11日、聖市の宮城県人会館で開催された5周年追悼復興祈願祭(岩手・宮城・福島県人会共催)であいさつする中沢実行委員長

 私の3つ下の弟は北海道の最北端稚内市に50数年住んでいます。北洋を舞台としての漁師で ソ連領海12海里ギリギリの緊迫した海域で操業してきました。彼は津波で失った気仙沼地方へ小型船を送ろうと運動し 利尻島と稚内の協力のお陰で35隻を集めることが出来て海路陸路で贈りました。
 度々訪伯されているオイスカの渡辺忠さんは仙台空港近くの海岸に防風防砂のための松の植林を地元の方々に参加して頂いて行い、松林を再生させました。
 世界中から義援金が届けられるなど多くの善意によって復興が進みました。
 国はインフラ整備に37兆円を支出しました。市町村独自の企画と鉄道国道の整備がほとんど完成しました。復興サイトを見ると各々の復興状況が分かります。気仙沼には1344mの斜張式としては東北一の気仙沼湾横断橋が完成し、三陸沿岸の国道はほぼ出来上がったようです。
 鉄道の廃線したところを活用してバス専用とし、バス高速輸送システムを作りました。住宅 と市街地の嵩上げと高台移転、防潮堤と港の整備などと魚市場 水産加工場などの地場産業の回復も進みました。さすが 日本です。
 福島原子力発電所事故については事が重大なので差し控えますが、日本国の科学技術を駆使して最善の努力を傾注して貰いたいと思います。

「東京五輪は東日本大震災の復興を世界に」の原点を忘れないで

 オリンピック開催地立候補の時から「東京オリンピックは東日本大震災の復興を世界に」と訴えておりました。それが最近は「コロナに人類が打ち勝った証」と変わり発表しておるのが気になります。
 コロナは日本で少なくなっても、ワクチンが届かない多くの国があります。オリンピックまでにはとても終息しません。そこでオリンピック委員会の責任でオリンピックで訪日する委員・選手にワクチン接種を義務付けることで解決したらいかがでしょうか。
 日本は原点に返って東日本大震災の復興ぶりを世界に堂々と発信すべきです。安心して訪日出来るように、日本を含めてワクチン接種の義務化を宣言して、コロナの心配を払拭し明るく希望溢れる復興ニュースを発してもらいたいものです。
 訪日する外国人は津波の巨大さと和を尊ぶ日本人の行動を忘れてはいません。そして日本は必ず復興すると信じております。10年間であれだけの復興事業を成し遂げたことに対して日本人として誇りに思い、深甚なる敬意を表したい。外国人からは日本国の施政力と国民の団結力に称賛の声が上がるでしょう。
 北上山系と三陸海岸は古生代の地層と深成岩の花崗岩で形成されていて、非常に安定した岩盤から出来ています。私が住むアチバイア地方の山とここから見える南ミナスの山は花崗岩の山々で三陸海岸から見える北上の山々と良く似ております。

2015年3月11日、聖市の宮城県人会館で行われた4周忌追悼支援集会の様子

 三陸海岸は国立公園で公害が少なく豊かな海があり、恵まれた自然環境が残っています。としても津波によって多くの犠牲者を出し、住む家と培ってきた財産を失なった被災者の皆様の、この10年間は想像を絶する日々を送られたことでしょう。
 今後は油断せずに地震津波に強い社会を構築し、住民と自治体がアイデアを出し合って地域の未来を創造して行くことを願っております。
 親を失った母校の高校生が一周年の追悼式で語りました。「多くの人と物を飲み込んだ海ですが、恵みを与えてくれる海を畏敬し感謝して共存できる社会」と――。

 

 

 

⇒ブラジル岩手/福島/宮城県人会=東日本大震災10周年追悼式=11日にオンライン配信

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