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中島宏著『クリスト・レイ』第133話

 心配するとすれば、そちらの方がまず、優先されるべきだろうね。真剣に語り合えば、誤解とか曲解というものは、自然に消えていくと僕は信じるし、僕たちもそのぐらいの水準には到達したいと思ってるよ」
 マルコスとアヤとの対話は、かなり微妙で重要な局面に入りつつある。
 変なガイジンと、変な外国人との交際は、いずれにしても通り一遍のものには終わらない運命を持っている。二人ともが、彼らの属する世界からは、かなりの変わり者と見られている以上、そこから出て来る結果は、自ずから常識だけでは見通せないようなものになっていくことは間違いない。それが、どのようなものになって行くのかは、今しばらく二人の会話を続けなければ、明確なものは見えてこないようである。
 青春を象徴する春の季節は、爽快で明るく、遥か先にある稜線までがくっきりと見えるような雰囲気を持っているが、しかし同時に、この季節には、思いがけないほどの天候不順が起きることも稀にだがある。その現れ方が急であるために、時にそれは多くの人々を驚かせたりするが、ただ、この時期の嵐には、夏のそれのような激しさはない。
 春の嵐が、ゆっくりと地平線上に現れ始めている。

 

アヤの告白

 

 マルコス ラザリーニと平田アヤとの会話は、さらに続いていく。
 そこには、何が正しく、何が誤りだという観念的なものはない。あえて言えば、そこにあったものは、若さが支える情熱といったものだった。思考の違い、習慣の違い、文化の違い、国の違いという、様々に異質なものを抱え込みながら、二人の間の対話はその違いゆえに、ますます活発になっていくようであった。
「私が、ブラジルの国に重心を置くようにした物の考え方をすることについて、マルコスはちょっと不思議に思っているようだけど、国を移すことによって自分の人生を変えようとする者にとって、こういうプロセスはむしろ、当然といえるのじゃないかしら。これからの人生を切り拓いていくこの国にこそ愛着を感じ、この国の持つ諸々の欠点や問題をすべて抱え込むようにして認めなければ、本当にはこの国の人間にはなれないと思うの。
移民とはそういうことであり、そこまでの考えがなければ、極端に言ってしまうとそれは本来の意味での移民じゃないと思う。私の中にある基本的な考えは、まずそれね。もちろん、そのことが簡単にできるとは思わないし、実際にそのことはかなりの難しさと、精神的な痛みを伴うことは間違いないわ。
 でも、そこのところをはっきりさせないことには、移民としての目的があやふやなものになってしまうし、そのことは、私のこれからの人生が中途半端にならないためにも絶対必要なものと考えているの。まあ、言うのは確かに簡単なことだけど、現実にはその辺りが非常に微妙ではあるわね。
理論としては正しくても、じゃあ果たしてその理論通りにすべてがうまくいくかとなると、実際にはその逆なのね。
 だって、私たちはすべて血が通った生身の人間だから、感情というものに支配されるし、逆境に対して常に冷静でいられるかとなると、それも不可能でしょう。だから、そういうものを乗り越えるには、想像以上に強い意志が必要だということが分かってくるわ。

 

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