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特別寄稿=イランが親日国になった理由=日露戦争勝利と日章丸事件=サンパウロ市在住 酒本恵三

欧米の植民地化からアジアを開放した日露戦争

 イランの正式名称は「イラン・イスラム共和国」。場所は、中東と西アジアの境目。 石油資源は埋蔵量3、4位とも言われ、天然ガスは世界1位。イランは実はとても親日国なのです。日本とイランが深い絆を作るきっかけとなった、戦後のある出来事についてご紹介します。教科書では、あまり取り上げられていない出来事︙。
 かつて多くの国が欧米の植民地政策により苦しめられていました。とりわけ有色人種の国が、イギリスやフランス、スペインなどにより、長い間、支配や搾取を強いられてきました。
 多くの有色人種の国が、欧米の植民地化により虐げられていた時代、1904年(明治37年)、ヨーロッパから遥か遠い極東の島国が、大国ロシアを相手に真っ向から挑みます。その極東の小さな島国は日本。日露戦争です。世界中が見守る中、多くの国は日本の敗北を予想していました。しかし、その予想を破り、日本が大国ロシアに勝利したのです。
 このことは衝撃的なニュースとして世界中に伝わりました。当時のイギリスの新聞は、こう伝えています。「日本人は、西洋の学問を吸収し、それらを応用し組み合わせて独自に使いこなすことが出来ている。この民族は、我々が100年かけて育んだ複雑な文明を、わずか一世代のうちに習得した!」「ロシア軍は、ロシア人最高の武勇を発揮していた。しかし彼らに挑む日本人はもっと偉大だったのだ」「粘り強さ、機転の良さ、勇気、厳しい状況への見事な対応。それらを目の当たりにして、今世界中が興奮している」「日本人は、誇り高い西洋人と並び立つ列強であることを世界に示したのだ」

乃木希典(Unknown author – restored by User:Adam Cuerden, Public domain, via Wikimedia Commons)

 日露戦争は、陸軍大将の乃木希典 (のぎまれすけ)率いる第三軍が、明治37(1904)年6月6日に遼東半島に上陸し、ロシアの要塞に対して突撃したことから始まります。日本軍の中では、開戦当時、「早期攻略可能」という予想でした。しかし、戦いは熾烈を極め、攻略には時間がかかりました。国内で乃木大将に対する批判が高まってきました。

日露戦争の旅順港外大感染の様子(Library of Congress、Wikimedia Commons)

 しかし、明治38(1905)年1月1日、ついに要塞の正面を突破し、ロシア軍旅順要塞司令官のアナトーリイ∙ステッセリに対して降伏を勧告。これを受けたため、停戦が決定。要塞攻略後、乃木大将は敵国司令官ステッセリと会見を行いました。
 その際、乃木大将は記者団にステッセリの写真を撮るのは1枚だけと言います。その理由を聞かれた乃木大将は、「敵将に対して失礼ではないか。後々まで恥となる写真を撮らせるようなことは、日本武士道が許さぬ」と、敵軍司令官に対して、極めて紳士的な対応をしました。その情報は世界中に伝わり、多くの国の賞賛を浴びました。
 ロシアとの戦いにおいて、日本海海戦では海軍大将東郷平八郎が率いる日本海軍連合艦隊がロシアの第二太平洋艦隊を(バルチック艦隊)打ち破ったことも世界に衝撃を持って伝えられました。
 のちのポーツマス講和会議へと繋がり、日本は日露戦争の勝利を手にするのです。この時、日本は明治維新により鎖国が解けてわずか約50年しか経過していません。欧米諸国からすれば、極東の小国日本が大国ロシアに勝利したことは、本当に驚く出来事だったのです。
 まだ国際社会で認められていない東洋の小国に過ぎなかった日本は、一日も早く列強国として国際世論に認められるためにも、戦時国際法を厳守しました。
 ロシア海軍の多くが海に投げ出されましたが、日本軍は彼らを懸命に救命しました。また、対馬や日本海沿岸に漂着した敵兵に対しても、適切に対応したのです。これにも世界各国から多くの賞賛が寄せられました。バルチック艦隊の提督ロジェストヴェンスキーは、「敗れた相手が閣下(東郷平八郎)であったことが、私の最大の慰めです」と涙を流します。

欧米の圧政に苦しむ世界から喜びの声

 当時ロシアの圧力に苦しんでいたオスマン帝国は、日本の勝利を自国の勝利のように喜びました。東郷平八郎は、オスマン帝国の国民的英雄になるのです。オスマントルコでは、「トーゴー」「ノギ」「ジャポンヤ」という名前を子供につける人までいました。
 当時反英独立運動に従事していたエジプトの民族学者ムスタファー・カーミル氏は、ロシアと戦い、勝利するまでになった日本という国を賞賛しました。「昇る太陽」という著作の中で、「日本の歴史こそ、東洋の諸国にもっとも有益な教訓を与えてくれるものと信じる」「日本人こそは、欧米に身の程をわけまえさせてやった唯一の東洋人ではありませんか。どうして日本人を愛さないでおれましょう」と語ったのです。
 イランの詩人「ホセイン・アリー・タージェル・シーラーズイー」は日露戦争の直後に創った「ミカド・ナーメ」(天皇の書)の中で、次のように日本を賛美している。「東洋からまたなんという太陽が昇っているのだろう。眠っていた人間は誰もがその場から跳ね起きる。文明の夜明けが日本から拡がったとき、この昇る太陽で全世界が明るく照らし出された」
 ロンドンでの亡命を終えた若き孫文が、帰国の途中のエジプトで、現地のエジプト人から「バルチック艦隊を全滅させた日本の勝利を知った。共に喜んでほしい」と聞かされたと言うエピソードを1924年に来日した講演で語っている。
 さらにこの時、5、6人のエジプト人に取り囲まれ、「中国は日本の近くなのだから、どうか日本人に伝えてくれ。我々は、日本人がロシアに勝ったことを我がことのように喜んでいると。我々も日本を見習って、植民地主義と戦っていきたいのだ」と孫文に頼んだという。
 当時イギリスに留学していた、後のインド初代首相ネルーはこう回想しています。 「日本の勝利は私を熱狂させた。私は新しいニュースを見るため、毎日、新聞を待ち焦がれ、どんなに感激したことか。どんなにたくさんのアジアの少年少女、そして大人が同じ感激を体験したことか」
 その中で、同じくロシア(ソ連)による脅威にさらされて来た国の一つ、イランは日本に対して好意的な感情を持つことになるのです。
 しかし、そんな日本を「出る釘」と判断した欧米諸国により日本は経済封鎖を受けます。ABCD包囲陣(米英中蘭の頭文字)という経済包囲網は、日本を窮地に追いやります。
 そして、欧米列国に対して日本は、アジア人(有色人種)として戦いを挑むこととなるのです。真珠湾攻撃から始まった太平洋戦争は、圧倒的な物量と兵力を持つ連合国が同盟国(日独伊)を次第に攻略していきます。
 日本は、広島と長崎に原子爆弾を投下されたことにより連合国に対して無条件降伏を余儀なくされたのです。敗戦後、日本は連合国による管理下にあり、これが日本の戦後復興の大きな足かせとなっていました。同じく以前から親交のあるイランもイギリスにより自国の石油資源を管理され国民は貧窮に喘いでいました。

失意の終戦直後、イギリスを出し抜いた出光佐三

出光佐三。財界研究社『財界』第14巻第4号(1965)より(財界研究社 撮影者不明, Public domain, via Wikimedia Commons)

 失意と自信喪失。国民の多くが、悲しみにうちひがれました。「イギリスによるイランの国内の貧窮」「自国の経済発展」を憂慮した一人の男が立ち上がります。その男の名前は出光佐三(いでみつさぞう)。出光興産創業者であり初代社長です。百田尚樹氏に「海賊と呼ばれた男」という小説のモデルとして取り上げられた人物です。
 当時、まだ石油販売では中小企業だった出光興産。このまま欧米に石油を握られるままでは、日本の経済復興は困難を極める。出光が目を付けたのはイランでした。第2次世界大戦後、イギリスから独立していたイランですが、その石油資源はイギリス資本「アングロ・イラニアン石油会社(現BPブリチィッシュ・ペトロリアム)」の管理下にありました。
 アングロ・イラニアンはイギリス政府投資の元、イランの石油を事実上支配しており、イランの国庫にも、イラン国民にも利潤が回らずイギリスに対する反発を強める大きな要因でした。
 とうとうイランは1951年、自国の石油利権を我が物とするイギリスに対して、石油資源の国有化を宣言します。しかし、イギリスはイランの石油の所有権はイギリスにあると主張し、他国のイランからの買い付けを一切禁止していました。
 実際に、イランの石油を買い付けたイタリア、スイス共同資本のタンカーはアラビア海で英海軍に拿捕されると言う事件が起こりました。
 イギリスはこの買い付け行為に激怒し、「イランの石油を買った者にはいかなる処置も辞さない」と発表しました。つまり撃沈も辞さないという意味です。
 このことは、アーバーダーン危機と呼ばれるイランを取り巻く中東の危機に発展します。しかし、この経済封鎖に国際法上の正当性がないことに目をつけた出光佐三は、イランの貧窮と日本の経済発展を目的として極秘裏にある計画を立てます。
 日本政府がイギリスと対立しないようにするためには、形式的に日本が直接買い付けをしないように見せる必要がある。出光は第三国経由でイランに交渉人を送ります。「航路をサウジアラビアへの航海に偽造」「日本政府に外交上不利益を与えないための綿密な計画」「航海中の危険回避」「国際世論の動向」国際法を隅々まで調べ尽くして挑んだ出光の挑戦でした。

モハンマド・モサッデク首相。1950年代初頭にイギリス系アングロ・イラニアン石油会社によって独占されていた石油の国有化を図ったが、イランによる石油国有化に反対する国際石油資本の意向を受けたイギリスとアメリカ合衆国、及び両国と結託した皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィーによって1953年に失脚させられた(Unknown author, Public domain, via Wikimedia Commons)

 そして、イラン首相モハンマドモサッデクやその他の要人と極秘の会談をすすめ、ついに1953(昭和28)年3月23日、神戸港から一隻のタンカーがイランに向けて出港しました。
 その船の名前は日章丸。そして日章丸は、イギリスの監視を掻い潜り、同年4月10日無事にイランのアーバーダーン港に到着します。イランの人々は熱狂的に歓迎しました。
 翌日の地元の新聞に日章丸の姿が大々的に掲載され、イラン経済に希望を与えるものだと賞賛と歓迎の報道をなされました。日本の中小企業が連合国の占領下に、イギリスという戦勝国に大胆な挑戦をしたことで、世界中の新聞は連日一面トップで取り上げます。
 出光佐三は「もう隠す必要は無い」と記者会見を行います。「日章丸はアーバーダーンに安着しました。イランの国有石油会社から石油を買い付けて目下積み荷中です」
 そう語ると、記者団から質問が相次ぎます。「イギリスに拿捕される心配はないのか?」「イギリスとのトラブルにはならないのか?」
 出光佐三はその質問に一つずつ答えます。そして、最後の質問でこう答えます。今回の日章丸のイランへの買い付けは、一企業の利益を追求した行動ではありません。私はそんなちっぽけなもののために日章丸と50余名の乗組員の生命を危険にさらすようなことはしません。諸君はイラン石油の輸入を、突飛な離れ業のように思っておられるらしいが、そうではない。広い大道をゆっくり歩いているような、ごく自然な歩みなのです。それは、私が常日頃に主張している「人間尊重主義」のドラマの一幕に過ぎません。
 つまり、出光佐三はこう言いたかったのだ。石油しか資源の無いイランでは、イギリス資本により石油を独占されている。実際、イラン国内では80%もの国民が栄養失調で苦しんでいた。
 かたや日本では経済復興したくても、国際石油資本(石油メジャー)から高い石油を買うことを強いられている。貧窮にあえぐイランから石油を買い叩き、日本に高く売り付ける。
 これは、利益尊重主義であり、人間尊重主義を思う出光佐三の考えとは相反するものだったのです。4月15日、石油を満載した日章丸はイランのアーバーダーン港を出港します。浅瀬やイギリスの機雷網を避けながら命がけの航海です。

出光佐三「日本国民として俯仰天地に愧じず」

時事通信社『時事通信 日刊時事解説板』第2235号(1953)より日章丸(2代目)。右上は新田辰夫船長(時事通信社 撮影者不明, Public domain, via Wikimedia Commons)

 大英帝国の威信をかけて食い止めようとするイギリスの海軍の裏をかき、日章丸は世界中が見守る中、海上封鎖を突破します。
 そして、1953年5月9日、川崎港入港した日章丸を待ち受けていたのは、関係者や既に出光の行動を知った人々や新聞∙マスコミが出光の快挙を記事にしょうと集まった多くの報道陣でした。
 その後、イギリスはこの買い付けに対し、「イランの石油は、アングロ・イラニアンのものである」として、東京地裁に提訴しました。さらに、日本政府に圧力をかけて出光に対する処分を促すのです。
 しかし、イギリスの石油独占に対してアメリカ政府は出光の日章丸による買い付けに関して黙認をします。また、世界中では日本の出光の挑戦に対して多くの支持喝采の声が叫ばれていました。
 そして、法廷の場で出光佐三はこう述べます。「この問題は、国際紛争を起こしておりますが、私としては日本国民として俯仰天地に愧じず(ふぎょうてんちにはじず=天の神に対しても、地の神に対しても、何ら恥ずべきところがない)の行為を以て終始することを裁判長にお誓いいたします」
 敗戦国の卑屈さなど微塵も感じさせない堂々とした出光佐三の態度に、法廷内では感嘆の声が漏れました。この裁判は結審まで3週間という早い時間で決着します。
 「イランとアングロ・イラニアンの契約は、私的契約であり、イランの民法に従うべきである。イランによる石油国営化は、正当である」と断じました。北村裁判長が述べた主文は以下の通りです。
 「本件仮処分を却下します。訴訟費用は甲請人の負担とする」。イギリスは勘違いをしていたのです。敗戦国の日本を属国のように思い違いをしていたため、勝てなくても最悪負けることは無いだろうと思っていました。
 しかし、北村裁判長はそれを許す男ではなかったのです。アングロ・イラニアン社は、一度控訴しますが二日後には控訴を取り下げました。これにより出光の勝利が確定したのでした。
 この出来事は、大きな意味を持っていました。これまで欧米の石油メジャーによる中東の石油産出国は支配されて来ましたが、この日章丸事件をきっかけに、世界は石油の自由貿易へと変化していくのです。
 戦後の日本の中小企業、出光興産と出光佐三の意思と行動が、今日でもイラン国民が親日である礎となったのです。
 2度目の日章丸のイラン人の石油買い付けの際、アーバーダーン港では多くのイラン人が出迎えました。岸や桟橋の人だかりからは「ジャポン、ジャポン」と声が聞こえ、飛行機からは色とりどりの花が舞い降り、上陸した乗組員たちは歓迎するイラン人たちに取り囲まれます。
 当時の首相モッサデク氏は、初代イラン駐在所長となった出光興産の佐藤又男氏を招き、後日このような言葉を交わします。
 「日本人の偉大さは常にイラン人の敬服の的です。その勇猛果敢な精神に感嘆しています。不幸にして今次の大戦には敗戦しましたが、何時の日か再び立ち上がる日のあることを確信しています。そして、日本がイランの石油を買う決心をされたことは感謝に堪えない。日本はイランの救世主であると思います。ぜひこのことを日本に伝えて、我々イラン国民の真意を汲んでほしい」
 この事件はまだ敗戦の虚脱状態から抜けきれないでいる日本国民に対し、自信と勇気を与えるものでした。イギリスから独立をしたといっても、唯一の資源である石油を握られたままだったイラン。国民の多くが貧窮にさらされた中で、出光が意を決して行動したことがイラン国民を救うことになったのです。まさに、出光佐三の言う「人間尊重主義」がイランを救い、そして日本を救ったのでした。
 あるイランの政府高官は次のように言いました。「イランでは3つの船が有名である。それは『ノアの方舟』『タイタニック』、そして『日章丸』である」と。 

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