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特別寄稿=笠戸丸移民大田向雪の苦難の生涯=過酷極めたノロエステ鉄道工事(上)=執筆 金城エジソン健児/翻訳 建本みちかマルリー

極貧だった沖縄での生活

金城エジソン健児

 1908年6月18日に移民船笠戸丸でブラジルへ渡った最初の日本移民781人の同船者のうち、325人が沖縄県人でした。大田向雪(こうせつ)が笠戸丸移民の一人としてブラジルに向かったのは、まともな食事もできない家族の生活を何とかしたいという一念からでした。
 彼は、1881年8月20日に沖縄県島尻郡豊見城村字豊見城242番地に父大田亀・母カマルの子として生まれました。
 家族の生活は極貧の中にあり、20代半ばになった頃、親兄弟の生活を何とかしたいと、落ち着いてはいられない思いで、真和志村國場(今日の那覇市國場)出身の家長嘉数亀一の従弟に成りすまし、その家族構成の一員となって乗船したのでした。
 向雪は当初、ハワイへ移住して沖縄より良い暮らしを送っている人の話を度々耳にしてハワイへ渡ろうと思っていましたが、その頃には米国は既に移民を受け入れていなかったために不可能となり、丁度その時にブラジルへの移民受け入れ制度が開始され、方向を変えたのでした。
 向雪には、新たな扉が開いたようでした。ブラジルに関する宣伝は大変魅力的であり、いささかもいかがわしく感じられなかった。日本のその頃の状況からすれば素晴らしい可能性が目の前に開けるようでした。
 向雪は迷うことなく、家族の生活を立て直すためにブラジルに渡ることを妻とわが子に相談しました。
 地球の反対側に位置するそんな遠い土地へ渡ることを妻子に告げて納得してもらうのは大変困難であり、親族一同にも反対されました。そこで彼は、アメリカへ移住した人たちの現状も考慮して、知らない土地で危険もあるかもしれないので、単身で行くことを決心しました。
 何が待ち受けているのか、その時は何も知りませんでした。向こうで落ち着いたら妻と息子を呼び寄せることにしました。息子は二人いましたが、長男は6歳の時に亡くなりました。

ブラジルへの旅立ち

笠戸丸

 こうして向雪は小さな荷物をまとめ、わずか27歳で夢を追って愛する沖縄の地を後にしました。船が那覇港を出港した時、埠頭で手を振り、ハンカチを振りながら見送る人々を見て深い悲しみを感じ、他の乗船者と同じように手を振り、悲しい別れに涙するのでした。
 徐々に島が視野から消え、青く澄んだ海が広がっていきました。その日は猛暑日であり、上部デッキで吹く風が頬の涙を拭ってくれるのを感じました。しかし全てが悲しいことばかりではなく、船が時には静かな海、そして大半は風が強く荒々しい海を進んでいく間、多くの島人と仲良くなりました。
 やがて神戸港へ到着し、上陸してからは様々な手続きや準備を経て、今度は日本を後にすることになります。早く出発したいと焦る一方で、神戸港を出港すれば愛する家族が益々遠ざかっていく悲しさを感じていましたが、今さら諦めるわけにはいきませんでした。
 それから数日後、笠戸丸は1908年4月28日に神戸港を出港しました。向雪を見送る家族はそこにはいませんでしたが、お別れを告げ、見送る人々を前に胸が熱くなり、同船者と感動を共にしました。刻一刻と日本が遠ざかり、沖縄は更に遠ざかっていることも分かっていました。
 船内では乗船者を楽しませるために色々な催し物が企画され、給油の為にいくつかの国の港に寄港しながら二カ月の海路を経てようやくブラジルの海岸線に到着し、そして1908年6月18日にサントス港へ着岸しました。ブラジルはとても寒い日でしたが、覚悟はできていました。
 何もかもが新しく、人々の顔、港で働く作業員の荒っぽい動作、まさに別世界です!
 ヨーロッパ人のような人が多く、スーツにネクタイで偉そうに振る舞っていました。ポルトガル語の単語をいくつか覚えていましたが、会話は全く聞き取れず、不思議そうに初めての日本移民を見ている人も多くいることに気付き、まるで別世界の人間を見ているようでしたが、自分たちも同じ好奇心を持って彼らを見ていました。
 下船手続きの後、すぐに一列に並んでサンパウロの移民収容所へ向かう汽車に乗り込みました。彼らにとってサンパウロへ向かうサントス山脈の景色は素晴らしく、見渡すサントス平野に目を見張り、線路沿いで多くの子供が遊んだり走ったりしているその光景は幻想的でした。
 汽車が山脈を上るに連れて周りは霧に覆われました。周囲は何も見えなくなり、旅の疲れを感じながらも全てが新しく、目を閉じても休むことができませんでした。

珈琲園・フロレスタ耕地

移民船の中の運動会の様子(『在伯同胞活動実況写真帳』1938年、高知県古市町の竹下写真館)

 目的地に到着し、全ての手続きを済ませてから最終目的地の農場へ送りだされました。日本移民はサンパウロ州奥地の5つの珈琲耕地に配耕されましたが、その中の沖縄移民は、モジアナ線カナーン耕地とイツー市のフロレスタ耕地に送られました。
 大田向雪は23家族173名と共にフロレスタ珈琲耕地に配耕されました。
 しかし、コーヒー農場の労働は、過酷な上にその年のコーヒーの稔りは悪く、労働賃金が安い。粗食の上に借金が溜まっていく。しかも住む家は馬小屋に等しい建物で、砂ノミという虫が手足の爪の中に入り込み、膿をもたせて夜中痛む。子供連れの多くの家族は農場主および日本の移住会社との契約を履行できず、郷土の家族の事を想い、より良い条件を求めて農場を逃げ出す家族の「夜逃げ」が起きました。
 向雪は、単身移民でしたし、費用も少なかったため契約を履行することができました。誰もが好き好んで「夜逃げ」をしたわけではなかったし、困難極まりない状況の中で他の打開策を見出せずに、逃げ出すという極限の選択をしてしまったのです。向雪は「夜逃げ」はしなかったけれど仲間たちのことが痛いほどわかるのでした。

サントスからアルゼンチン、そしてノロエステ線鉄道工夫へ

中央に立っているのが大田向雪。サントス港で1917年6月15日に撮影された。息子亀寿の将来の義理の兄弟となる金城亀を呼びよせ、共に鉄道79km区間の第108号班で働いた。座っているのは瀬長亀寿、その左瀬長オト

 契約期間が終わっても農場に留まる人もいましたが、サントスへ行けば港湾の沖仲仕の仕事があり、そちらの方が賃金も良いという話を聞きつけ、迷わずにサントスへ向かいました。沖仲仕として朝から晩までコーヒーの袋を担いで一生懸命働きました。
 この頃は余りの疲れに愛する沖縄や家族の事を忘れることもありました。しかし働き続けなければいけません。農場ではほとんどお金は貯まらず、今度こそもう少しお金を貯めようと思っていました。
 しかし家族を呼び寄せるにはまだ十分ではありませんでした。同郷の人の話によればアルゼンチンでは景気が良く、短い期間で多くのお金を貯めることができるということで、知人数人とアルゼンチンへ渡りました。
【注】私は、2018年にアルゼンチン沖縄県人会において、アルゼンチンに渡った笠戸丸移民について調査を行ったけれど、大田向雪の名前は移住者名簿には記録されていませんでした。
 しかし、向雪の次男大田亀寿・モウシの次女瀬長ローザさんから語り聞いたことでは、向雪は職を求めてアルゼンチンに渡り、そこからノロエステ鉄道工夫となるためにブラジルに再移住したと証言しました。
 しかし、アルゼンチンの状況も大して変わらず、転々と仕事を変える中で出会った同郷の人らも同じ境遇にあり、もっと稼ぐことができる仕事を探していました。常に夢を追い続け、ブラジルを横断するノロエステ線鉄道建設が始まり、高い賃金で労働者の求人広告が出されているという話を聞きつけました。
 そのプロジェクトの詳細を聞いていると、アルゼンチンから直接その場所にたどり着けることが分かりました。目的を達成するためには迷っている暇はなく、なりふり構わず同胞と共に新たな挑戦に向かって旅立ちました。
 同郷の大城幸喜を中心にサントスから海を渡ってきたグループとアルゼンチンに滞在していたグループの向雪ら凡そ70人のウチナーンチュたちは、筏舟に乗ってラプラタ河を遡上し、マット・グロッソ州のポルト・エスペランサへと向かいました。
 その仲間の多くが笠戸丸乗船のウチナーンチュであり、またペルーからアンデス山脈を徒歩で乗り越えてきた仲尾権四郎や山城興昌、宮平市栄らも加わっており、それぞれの話を聞き、お互いに心の内を明かすことで気を紛らわすことができました。皆が夢を実現しようと心ゆくまで語り合いました。
 三線の伴奏などは勿論ないまま郷土の民謡を歌い、お互いの声だけで響き渡るそのメロディーは彼らの心に光を燈し、懐かしい島、家族への想いが癒されるひと時でした。

6年目のカフェ花盛りの様子(『在伯同胞活動実況写真帳』(竹下写真館 高知県古市町、1938年)

 また、河には様々な魚が群をなしており、竿を投げればいくらでも釣れ、釣り上げた魚を皆で食事にする楽しみも彼らの心を和ませました。そのような日々が、連日連夜続き、いつまで経っても目的地へは到着できないのではないかと思うほどでした。
 さらにパラナ川をさかのぼってようやく分流のパラグアイ河に到達し、南米大陸の探検は続きました。静かな川をゆっくりと遡っていきました。両岸に広がる原生林は見たこともない光景であり、その壮大な景色に見ほれるばかりでした。
 この静かで透き通ったパラグアイ川の水面には昼は雲が、そして夜は月と星が反射され、まるで手に届くようでした。パラグアイ川の静かな水面に灯る星や月明りを見ているうちに、ふと気付けば小さな島沖縄のことが懐かしく思い出されました。
 約1カ月かけてようやく目的地のマット・グロッソ州(現在のマット・グロッソ・ド・スル州)ポルト・エスペランサへ到着しました。
 向雪らは、このポルト・エスペランサから東へと続く鉄道の建設に従事しました。彼らは、日給5ミルレースという当時の高賃金(ちなみにコーヒー耕地のコローノが終日働いても2ミル500レース)に魅せられて何千キロにも及ぶ海と河を渡ってノロエステ鉄道工夫となったのでした。
(続く、※本稿はブラジル沖縄県人移民研究塾同人誌『群星』6―7合併号から転載。同号は編集部で絶賛有料配布中)

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