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繁田一家の残党=ハナブサ アキラ=(1)

(一)九州の仲間達

 ブラジル東北地方最大の都市レシーフェにトロリーバスを導入された伊藤さんは、終戦直後に訪日したが、廃墟と化した焼け野原の祖国の姿に呆然とし、日本は滅びたと失望してブラジルに戻った。
 その後、東京オリンピックの年に祖国の復興を半信半疑で再訪し、新幹線に乗り地方都市までが豊かに繁栄してるさまに接し大和民族の偉大さに、あらためて誇りを持ったのでした。
 敗戦後の打ちひしがれた日本人に希望の灯を燈したのは、フジヤマの飛び魚と賞賛された浜口、真木、橋爪、古橋の日大リレーメンバーが樹立した世界新記録、それにラジオ放送・三木鶏郎の「日曜娯楽版」でした。
 三木さんの本名は繁田、本職は弁護士。その従弟にあたる繁田正之氏が、この物語の主人公。
 食糧難の時代に日大水泳部世界新記録続出の献立を創った真木昌選手も、この物語に登場する。
 繁田親分との出会いは九州の博多、日本全土がオリンピック・ブームに沸く昭和38年の春。赴任してきた支店長の歓迎会が、白魚の踊り喰いで有名な室見川であった。
 その時、ワイは隠し芸のアドリブ落語をやったっんで、この新しい上司は“九州にはけったいなやつがおるなあ”思ったそや。
 東芝放射線の福岡支店長として着任した眼つきの鋭い、新しい上司は高松に家族を残し単身博多に乗り込んだ。
 親分は早速独身寮をつくり、博チョンの親分自身が真っ先に入寮し寮生には、「おやじ」と呼ぶように指示した。
 寮生最年長で販売主任のワイは座敷に布団を並べ、この上司の寝言とも実話とも知れない興味津々の話を毎晩聴かされた。 
 門柱に「遺族の家」の鑑札のある陸軍中将の私邸であった地行西町の寮を、おやじは梁山泊と称し夜な夜な酒盛り、近所の酒屋が酒やビールを借りに来ることさえあった。
 経理課長の沖田嘉千冶が酒屋の請求書に物言いをつけたところ、おやじは烈火のごとく叱りつけ“そのぐらいの経費処理の出来ないような経理課長なら辞めてしまえ! 寮の若いやつらが外に飲みに行くことに比べれば安いもんじゃ! 他の支店の様に社員が、てめえら同志で飲み屋やバーに行き会社のツケで飲まんようにしてる親心が判らんのか!”と、経理課長を一喝。
 困り果てた経理課長が営業課長に泣きついた。
 思いつきは良いのに、実行力のない営業課長の石井新一郎が、営業の実権を握るワイに揉み手で“なんとか飲み代を工面してくれ”とぬかしやがった。
 共産党員が、なにぬかしてけつかんねんと思ったけど、酒飲みたいさかいに、一番弟子の高倉に知恵を借りた。
 顧客を紹介してくれた人に販売手数料受領の、はんこさえ押して貰えば打出の小槌のように、いとも、た易く金の工面が出来るとは一番センター高倉こと寮の小政からの入れ知恵。
 大政のワイには、悪知恵の働く小政は重宝な足軽同然、生涯の友となった。
 と、云いたいところだが、高倉は由緒ある神社の宮司の嫡男で、足軽どころか高倉天皇の家系。斯く云うワイは町人の分際で灘五郷は樽屋宇平の9代目、おそれ多くも畏くも、やんごとなき御方を部下に持った果報もんや。
 その高倉も、あれから40年間で事業にも成功し、個人的にも目標の千人斬りも果たし、アメリカで暮らす孫に毎年会いに行く悠悠自適の生活送っとる。

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