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《記者コラム》本紙12月廃刊に思うこと=40年間邦字紙支えたラウル社長

10月30日、プレミオ・パウリスタで挨拶する高木ラウル社長

 本号2面において、高木ラウル社長が「12月18日号をもって廃刊する」と公表した。残念なことだが、あと1カ月で本紙は幕を閉じる。
 ノロエステ連合日伯文化協会の元会長、白石一資さんにそれに関するコメントを求めると、「新聞がなくなると本当に困る。毎日読まないと、日系団体のことが分からなくなるし、日本語を忘れてしまう」と邦字紙の価値を再認識させてくれた。

白石一資さん

 白石さんは1935年6月11日、サンパウロ州ガララペス生まれの二世だ。
 さらに「父も邦字紙を読んでいた。ボクが日本語学校で12の巻きを終えたとき、もうそれ以上先を教える教科書がなくなってしまった。父にそれを言うと、『おまえも新聞を読め。最初は分からないところもあるだろうから、それは飛ばして、とにかく毎日読め。そうすればだんだん分かるようになる』と言われた」とのエピソードを披露した。
 白石さんは、父の言う通りにして新聞を読めるようになった。以来、欠かさずに邦字紙を読んでいるという。

40年間、邦字紙一筋に働いてきたラウル社長

 ラウル社長は「私が40年間、邦字紙で働いてこれたのは、愛読者のおかげ。ここまで続けてこられたことに、心から感謝したい」と繰り返す。
 ラウル社長は1946年1月、聖市生まれの75歳。カトリック大学法科を卒業して、西功法律事務所に務めていた時、同じビル内の日伯毎日新聞(以下、日毎)の中林敏彦社長と親しくなった。西弁護士は日毎の法定責任者も務めていた。
 その縁で1981年に日毎に入社し、そこから40年間の邦字紙生活だ。そして、「83年からこっそりと社長を引き継いだ」という。
 なぜ「こっそり」かといえば、当時はまだ37歳の若造で、いきなり「邦字紙社長になった」といっても、周りから信用されないのではとラウル社長が心配したからだ。
 中林さんに「しばらく公表しないで、こっそり引き継ぎをして欲しい。自然に知られるようになるのを待ちたい」とお願いして就任したという。
 ラウル社長は「中林社長の願いを引き受けるに当たり、最初に相談したのは、一百野さんだった。彼が『ラウルなら私も続ける』と言ってくれたので、決断した」と振り返る。一百野雄吉さんは当時の編集長だ。
 当初、中林社長が後継者として白羽の矢を立てたのは、ソールナッセンテ証券を創業して大成功していた戦後移民・若松孝司さんだった。若松さんは元パウリスタ新聞記者であり、邦字紙事情にも詳しくて、資金力も充分あるため適任と思われたからだ。
 だが、若松さんが自分の社員を一週間、新聞社に送り込んで財務状態を調査させた結果、「引き受けられない」と返事をしてきたという。
 すでに労働裁判なども抱え、経営状態はかなり悪化していたからだ。その結果、二世で現地事情に明るく、法科卒の弁護士として裁判慣れしているラウル氏が選ばれた。
 日毎は二世が社長になったことで、当時3紙あった邦字紙の中で、雑誌出版などの多角化、ポルトガル語紙面の充実などに力を入れるようになった。

平版印刷機でガッチャン、ガッチャン

 ラウル社長は「私が社長になった頃、印刷機は平版で、一枚、一枚、ガッチャン、ガッチャンと印刷するものだった。だから印刷だけで6時間もかかった。パウリスタ新聞とサンパウロ新聞はすでに最新の輪転機を導入しており、1時間もかからない。ボクも印刷から、配送部の折りの作業、配達まで手伝ったことあるよ」と思い出す。
 当時の経営の苦労として最大のものはハイパーインフレだったという。「インフレが酷くて、給料が払えないことが良くあった。だから、なんとかバーレ(食券)だけは毎週金曜日に必ず配った」と振り返る。
 そして「長年働いていてくれたある従業員が亡くなって、お葬式に行ったら、家族を紹介された。何番目の息子は弁護士、何番目は医者などと、子どもが皆立派な職業に就いていて本当にビックリした。どうしてあの給料で子どもにそんな教育を与えられたのかと、すごいと思った」としみじみ語った。

パ紙と日毎が98年に合併、23年間の歴史

 振りかえれば、パウリスタ新聞(1947年1月創刊)と日伯毎日新聞(1949年1月創刊)という、共に半世紀の歴史を誇る邦字紙が合併して、ニッケイ新聞は1998年3月3日から始まった。
 何のセレモニーもなく、突然新聞が切り替わる形で始まり、それから23年の歴史を刻んできた。
 同創刊号の中で、吉田尚則編集局長は《「読者と共に考える」創刊の辞にかえて》として、次のように論じている。
 日本の地方紙は地域に根ざした独自のテーマを抱え、何十年も変わることなく追及しており、それに習って《時流に即応した編集姿勢と時を超えた編集方針》をニッケイ新聞の有り方として掲げている。
 その上で、後続移住者が途絶えた今、一世から一世にバトンを手渡すことができない時代を迎えたとし、《一世の体温が伝わるバトンを直接、子孫に託さなければならない》と論じる。
 ブラジルという人種と文化の混交化が進む実験国家において、《本紙は「地域主義におけるグローバリズム」の情報発信体として、実験の過程と成果を日本や他の移民先発国のコミュニティに伝え、それらの地域から学び得た情報を日系社会に報告する。そのような新聞でありたいと念じています》と宣言した。
 その高い志がどの程度実現できたが…。正直言ってはなはだ心もとない。
 だが少なくともその間、皇太子殿下(現天皇陛下)のご来伯を頂いた移民百周年(2008年)、外交関係樹立120年(2015年)、眞子さまをお迎えした110周年(2018年)と重要な節目を記事として残してきた。
 なかでもコロニア出版物部門に力を入れ、日本語、ポ語のどちらも数々の刊行物を出してきた。
 09年4月には百周年記念写真集『百年目の肖像~邦字紙が追った2008年~』(日ポ併記、オールカラー)も刊行(https://www.nikkeyshimbun.jp/2009/090425-71colonia.html)した。
 当時本紙記者だった堀江剛史さん(広島在住、現広島日伯協会理事)の尽力で実現した、09年のアマゾン入植80周年を記念した連載をまとめた『アマゾン—日本人移民80周年』(https://www.nikkeyshimbun.jp/2013/130621-71colonia.html)が、その後に続く出版事業の端緒となった。
 2016年1月からは、日ポ語両語を並記した著作『日本文化(Cultura Japonesa)』シリーズを、サンパウロ青年図書館と共に刊行しはじめた(https://www.nikkeyshimbun.jp/2016/160123-72colonia.html)。
 年2、3冊を出し続け、2019年3月には『日本文化』第9号を、眞子さまご来伯特別写真集として刊行して好評をえた(https://www.nikkeyshimbun.jp/2019/190314-71colonia.html)ことは記憶に新しい。
 また、パウリスタ新聞は1990年から研修記者制度を始めた。日毎は80年代から日伯交流協会生を毎年受けれて、両方の流れを合計すれば、70人を軽く超える人材が記者研修制度から育っている。
 この研修生にはマスコミ志望者が多く、帰国後にかなり新聞社やテレビ局に入っている。朝日新聞、読売新聞、NHK、中日新聞、北海道新聞、高知新聞、岐阜新聞、神戸新聞などあちこちで活躍している。
 ブラジル日系社会を知っている記者が日本でそれだけ活躍している。そんな人材育成も邦字紙の重要な役割だ。高木ラウル本紙社長はそのような「日本の若者育成」という新聞社の役割をつねづね強調してきた。

ポ語新聞の市場を切り開いてきた二世社長

 ブラジル国内という市場に注目した場合、新聞が生き残るにはポルトガル語紙面をどう活性化させるかがカギだ。
 パウリスタ新聞(当時、小川パウロ社長)が作った初のポ語雑誌『Revista Arigatô』が1987年に廃刊した。当時としては画期的な取り組みだったが採算がとれなかった。
 一方、日毎はポ語別冊『PáginaUm』を1979年4月から土曜版に挟み込む形ではじめていた。日毎ポ語編集部の木村ウイリアム編集長を中心に、1979年4月に土曜版に挟み込まれた形で0号を出した。
 邦字紙でポ語面といえば1~2頁ていどのおまけのイメージの時代であり、ポ語だけの別冊というのは初の試みだった。
 日本語紙面とは全くトーンが異なり、二世がもつ肌身の時代感覚、たとえば軍事政権からの脱却などのもっと一般社会の時代の空気を色濃く反映していた。
 創刊直後からポルトガル語紙面をつくったパウリスタ新聞、ポ語別冊に力を入れてきた日毎に対して、サンパウロ新聞は1960年代頃までポ語面すら作らない方針を貫き、最後まで日本語だけを重視していた。
 サ紙の水本エドワルド氏は社長在任当時の1985年、次のような発言をしている。「我々はコミュニティ全体のために新聞を作っているのではない。我々の購読者リストの95%を占める日本人のためであり、日系子孫は最低人数でしかない。だから、我々の新聞をそこに合うように急激に変化させることは意味がない。現実的ではない」。
 つまり、サ紙の考え方は、邦字紙読者はあくまで日本移民であり、ポ語世代を含めた読者層に広げることを否定してきた。だからポ語の紙面に力を入れてこなかった。
 その点、ニッケイ新聞は別冊というオマケではなく、「Jornal Nippak」というポ語独自の購読紙を創刊し、現在まで続けている。このへんにラウル社長が最初から持っている「二世として経営者感覚」があるのだろう。

40年前にコロニアは消滅すると予測した米教授

 文協事務局長だった藤井卓治さんは、1976年に出た『週刊時報』創刊号に「鮮烈なペンに期待」との一文を寄せた。
 いわく「十数年前に来伯して、日系移住社会のブラジル社会への融合事情を調査したアメリカ・コーネル大学のスミス教授は『後20年経ったら、日本語新聞も日本語学校も仏教や新興宗教もなくなってしまう』という結論を出した」と現実とは違うことを揶揄した。
 スミス教授が予測した通りなら、邦字紙は1980年代には消滅していたはずだ。だが、事実としてはその約40年後、2021年現在でも続いている。それは、コミュニティ自体が続いていることを意味している。
 さらに藤井は、「『コロニアとは何か』と聞かれれば、私は直ちに『新聞だ』と答えるであろう。新聞がなくなればコロニアは分解するだろうと思うからだ。戦時中、もし日語新聞があったら、あのような勝ち組負け組事件は起こらなかっただろう。同じように、『日本語は何時まで続くか』と聞かれれば、『日語新聞と運命を共にする』と答える外はない。ドンピシャリの答えではないが、それ程新聞の占める地位は大きい」と書いている。
 藤井さんの説によれば、日本語のコミュニティが残っている限り邦字紙は続くし、二世・三世らがポルトガル語のコミュニティを続けていれば、ポ語新聞も続く。
 「コミュニティペーパー」があるかないかは、日系社会が続いているかどうかを計るバロメーターの一つなのかもしれない。

ニッケイ新聞が発行した刊行物の一部

2000年以降、邦字紙もネット時代に

 日本語新聞が生き残ることに関して、ブラジル国内の移民読者が減っていく中で、新たな読者層として開拓すべきなのは、ブラジル国外にいる日本人、たとえば日本の日本人だろう。
 その点、ニッケイ新聞は時流に合わせてネット対応をしてきた。
 2001年にサイトを立ち上げ、2012年からは「PDF版」の発行も始めた。現在は、サイトの有料記事もPDF版も見られる「Web版会員」、企業・学校等の「団体向けアカウント」も行っている。団体向けアカウントには早稲田大学、神田外語大学などもある。
 また、東京支社(輿石信男支社長)が把握する日本国内の購読者には、日本銀行などの主要な金融機関や投資機関はもちろん、ブラジルに進出・投資する企業、「◎◎総研」のような研究所、有名大学、各種官庁部署などが多く含まれている。
 ヤフーニュースと記事掲載契約を結んでいる関係から、紙媒体として読まれるよりも、ネット記事として読まれる方が現在では多くなった。
 なかでも、2020年4月18日付ヤフーニュース投稿の《ブラジル記者コラム「在日ブラジル人にも10万円給付を」》記事は、195万ビューを記録した。賛否両論がコメント欄では交わされ、大いに問題提起した。
 たかが邦字紙の記事が、日本で200万人近くの人の目に触れるという現象は、ネット時代ならではのことだ。ヤフーニュースでは、今年だけで数十万ビューの記事が10本近く出ている。
 本紙サイト記事2019年4月27日付《日系五世の高校生が堂々の祝辞=天皇陛下御即位30年式典で=北野監督、山中教授らに並んで》でも(https://www.nikkeyshimbun.jp/2019/190427-71colonia.html)では、いいねボタンが2500回押されるなど、記事によっては日本の人にもかなり読まれている。
 このように、ブラジル国内の移民読者だけでなく、「ブラジル情報を日本の日本人向けに発信する媒体」としての役割が強まってきている。その傾向はパンデミック以降、特に顕著になっている。
 ここまで育ててきたものを、むざむざドブに捨てるのはもったいない。この部分をさらに伸ばすことを、次の時代の課題にしたい。(深)

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