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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史

軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=一世紀半も受け継がれる家=第17回

現在もサーカスに出演するオリメシャ一族のフェイスブックの経歴ページ(https://www.facebook.com/Olimecha.Family/info/?tab=page_info)

 ブラジルの早竹虎吉も、竹沢万次同様、同じ一座でやっていた〃近い筋〃のものが名乗っていた可能性が高い。 ブラジルに来た「フランキ・オリメシャ」は1854年に大阪で生まれたと伝承されているから、1867年に米国公演した時に座長なので、13歳ではオカシイ。年齢的には渡米時に早竹虎吉一座に参加した子供芸人ではないかと思える。 それなら ...

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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第16回=幕末の軽業二名人がブラジルに?

早竹虎吉の有名な演目「富士の旗竿」(By 歌川国芳 (internet) [Public domain], via Wikimedia Commons)

 『CIRCO-TEATRO NO SEMI-ARIDO BAIANO (1911-1942)(バイアの半砂漠地帯のサーカス劇場=1911~1942年)』(レジナルド・カルバーリョ著、09年、バイア連邦大学)には次のように書かれている。 《「Haytaka Torakichite」は、1854年に大阪で生まれ、12歳でロンドンに ...

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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第15回=「オリメシャ」とは誰か?

論文『CIRCO-TEATRO NO SEMI-ARIDO BAIANO (1911-1942)(バイアの半砂漠地帯のサーカス劇場』のオリメシャ家について書いた部分

 ブラジルの竹沢万次の消息を探して、ネット検索を続けるうちに、なんと、今まで日本移民史にはまったく現れてこなかった日本人軽業師の名前が出てきた。 論文『(芸術、サーカスと体育)』(Unicamp、マリアナ・ロドリゲス・マエカワ論文、06年)によれば、ブラジルにおけるサーカスの歴史は1830年の「circo Bragassi」に遡 ...

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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第14回=意外なところにラモンの消息

日本帝国サーカスのエピソードが書かれたカラチンガ教会サイト

 鈴木南樹の記述によれば、ブラジルの竹沢万次は息子「東郷ラモン」に「Circo Imperial Japones」(日本帝国サーカス)一座を引き継いだ。ネットで検索するうちに、その消息が意外なところで見つかった。 ミナス州都ベロ・オリゾンテから東に300キロほど離れたカラチンガのカトリック教会サイトの歴史頁(15年11月29日参 ...

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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第13回=世界最大のサーカスがコンデ街に

「日本新聞」翁長助成社長の家を訪れた沢田一家。左端が翁長。右端が沢田(『サ芸人』193頁)

 突然だが、話は二十世紀に移る――。竹沢万次とは関係がないが、世界最大のサーカスが戦前、サンパウロ市の日本人集団地「コンデ街」にやってきた逸話は、日伯交流史には欠かせない。 1934年8月3日から、当時、世界最大といわれたドイツのサーカス団「サラザニ」がブラジル巡業に来て、なんと日本人街コンデ・デ・サルゼーダスのすぐ裏、「スダン ...

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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第12回=ブラジル芸人初訪日は1887年か

ジゼッペ・チャリニ(ロペス論文49頁)

 さらに調べてみると、サーカス事典シルコペディア(21日参照、www.circopedia.org/Giuseppe_Chiarini)によれば、チャリニCの1874年の極東巡業時に関して《一座はあまり目覚ましい活躍は出来なかったようだが、チャリニは日本人軽業師一座を連れてくることに成功した》と書かれているのを発見し、思わず膝を ...

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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第11回=実は意外に多い日本人同行者

曲芸師川村駒治郎(『サ物語』203頁)

 大武和三郎(当時17歳)は1889年7月、横浜に寄港したアルミランテ・バローゾ号のアウグスト・レオポルド殿下に気に入られ、同乗を許された。太平洋横断中に「帝政崩壊」となったが、翌90年7月にリオへ無事に帰港した。この大武が、笠戸丸以前の代表的な〃神代の世代〃の人物であり、戦前移民の多くが世話になった『葡和辞典』(1918年)を ...

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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第10回=南樹と符号するチャリニ同行説

チャリニ曲馬団、2度目の南米縦断公演のルート(ロペス論文)

 ロペス論文によれば、チャリニCの第1回南米巡業ではチリ、亜国から北上して1871年~72年に南大河州、リオ、バイア、ペルナンブッコ、パラーと北上した。 第2回南米巡業では1875年10月~77年5月にほぼ同様のルートを逆に南下した。ブラジル帝政末期の海岸部の主要都市を総なめにするルートだ。 1880年代は北米とアジア、極東を中 ...

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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第9回=チャリニ曲馬団同行説

チャリニ曲馬団、1874(明治7)年に日本公演した時のアジア横断巡業のルート(ロペス論文)

 万次がいつ、どうやって渡伯したのか――この謎を解くカギはどこにあるのか。鈴木南樹は「1870年頃」に来たと書くが、どうやって来たかに触れていない。今まで見てきた中で、考えられるのは次の三つだ。【サツマ座同行説】ウルグアイ、アルゼンチンで1873年に公演したサツマ座が、ブラジルで公演した広告は今のところ見つかっていない。でも、も ...

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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第8回=三好「本筋の人間ではない」

つま先で支えた梯子の上に、子供が立って曲芸をするイメージ(トリタカ日本一座のポスター『サ物語』104頁)

 当時の芸の具体的なイメージが湧かない。 1886年にブラジルのエスタード紙の広告で「手のひら40個分の怪物〃日本の階段〃(A escada japoneza)。つま先で均衡を保ち、上に子供を載せる曲芸」というものがあった。8・8メートルぐらいの高さの階段(梯子)の上で、子供が曲芸をするようだ。 前節で紹介した日本人初の帝国日本 ...

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