連載
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日本移民108周年記念=囚人の署名 平リカルド著 (翻訳)栗原章子=(27)
組合の墓地は十字架で埋まり、手狭になったほどである。居城半藏の両親を含めた小数の者だけが生き残り、そこで築きあげた少しばかりの財産を投げ出して、移民収容所に助けを求めたのだった。地獄から抜け出した家
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日本移民108周年記念=囚人の署名 平リカルド著 (翻訳)栗原章子=(26)
第8章 恩赦 戦争が幕を閉じる前後から、ブラジルでは臣道連盟が活動しはじめた。臣道連盟は1945年に創立された組織で、一世(日本生まれの日本人)やその子孫でありながら、日本帝国への忠誠心を欠いたり
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日本移民108周年記念=囚人の署名 平リカルド著 (翻訳)栗原章子=(25)
(フォーリャ紙記事のトルーマン大統領のコメントの続き)原子力を公開することは人類の新しい時代への理解へと繋がる。原子力は、将来において、石炭、石油や水力発電などを補強するものとなるであろうが、現段階
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日本移民108周年記念=囚人の署名 平リカルド著 (翻訳)栗原章子=(24)
(フォーリャ紙記事のトルーマン大統領のコメントの続き)1939年以前、科学者は原子力を隔離することは理論的には可能だとの結論に達していた。 しかし、実際には誰もどのような方法を取ればいいのかを知らな
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日本移民108周年記念=囚人の署名 平リカルド著 (翻訳)栗原章子=(23)
「歩いていたら、1機の飛行機の音が聞こえた。空を見上げるとアメリカの戦闘機のB―29が飛んでいて、2つのパラシュートが投下された。突如として大きな光が見え、私はそのまま気を失ってしまった」 何年か後
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日本移民108周年記念=囚人の署名 平リカルド著 (翻訳)栗原章子=(22)
イーリャ・グランデで日本人囚人たちは原爆投下のニュースを知らされた。一九四五年八月六日付けの新聞は、太平洋戦争についての混乱したニュースを報道した。ある新聞はアメリカ政府の発表をそのまま記事にしてい
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日本移民108周年記念=囚人の署名 平リカルド著 (翻訳)栗原章子=(21)
第7章 原爆投下の知らせ 第二次大戦が激化し、ブラジルの陸軍や空軍の兵士がヨーロッパ前線に送られることになった。またブラジル政府は枢軸国に属する囚人たちをリオ州、イーリャ・グランデの島にある拘置所
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日本移民108周年記念=囚人の署名 平リカルド著 (翻訳)栗原章子=(20)
彼らに共通していたのは、後にしてきた故郷を思う気持ちだった。彼らはよく故郷の思い出を語った。 兵譽はそんな彼らの思い出話を小さな枕を頭に当てて、新聞紙のように薄っぺらなマットに横たわり、聞いていた。
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日本移民108周年記念=囚人の署名 平リカルド著 (翻訳)栗原章子=(19)
故郷に帰り、賑わっていた町並みや焼け跡の原っぱを自由に歩き回ったりする夢は1943年3月3日に崩れ去った。 その日、最高軍事裁判所は国内の安全法令を犯した犯罪者の刑罰を発表したのである。 1942年
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日本移民108周年記念=囚人の署名 平リカルド著 (翻訳)栗原章子=(18)
兵譽は杉俣政次郎が両親に宛てた手紙を読んで驚かされた。彼が悲しみのどん底にあることを知れば両親はもっと嘆き悲しむことであろうから。 手紙には次のようなことが書かれていた。 《お父さん、お母さん、お会