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ペルー 関連記事

書家浜野龍峰さんがデモ=クリチーバで書の心広める

総領事公邸でのデモンストレーションの様子

 書家の浜野龍峰さん(福井、りゅうほう)がパラナ州クリチーバを訪れ、5月15~17日にかけて講演会やデモンストレーションを開催した。在クリチーバ日本国総領事館、国際交流基金の共催。 浜野さんの来伯は昨年に続き2回目。昨年は、ブラジル、パラグアイ、アルゼンチン、ペルーを訪問し、40日間かけて南米で書道を紹介して回った。ブラジル日系 ...

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東西南北

 27日、下院で政治改革に関する2件の投票が行われたが、その議題にする討論の最中、ひとり机の下を向き、携帯電話でポルノの動画や写真を見ていた議員の姿が、SBT局のニュースで映し出された。放送ではそれが誰なのかは明かされなかったが、ジョアン・ロドリゲス下議(社会民主党)が、それは自分だと名乗り出た。同下議は、これらを見ていたわけで ...

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パナマを越えて=本間剛夫=87

        4 一九五四年、日本外務省はボリビアに対して移民の可能性を調べるため調査団を派遣した。彼らは二週間の調査ののちサンタクルース地方を選び、それから北西百三十キロのサンファンの土地を購入することになった。 この頃、企業家で海外からの引揚者西川利道は小規模精糖機械をもって海外進出を計画し、外務省に応援を求めていた。彼の ...

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外交120周年=秋篠宮ご夫妻10月来伯か=日本で報道、2週間もご滞在=皇室の全伯行脚に期待の声=大使館「依然、調整中」

06年パラグアイ訪問時に老移民から話をお聞きなる秋篠宮殿下

 外交樹立120周年を迎えた今年、皇室来伯への期待が日系社会で高まる中、NHKはニュースや電子版(25日午前4時6分)で、「秋篠宮ご夫妻 この秋ブラジル公式訪問へ」との見出しで報道した。それによれば、同ご夫妻は全体で2週間の滞在でブラジル各地を訪問するという。  日伯修好通商航海条約が結ばれたのは1895年11月5日。両国にとっ ...

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パナマを越えて=本間剛夫=86

 農業担当官はブラジルに駐在したことがあり、私が戦後二度目の旅行の際、サンパウロで日本人移住者の候補地選定に動向した間柄だったことを知って親しみが湧いた。彼はボリビアの底地ジャングルに新設されたサンファン移住地の農業指導者として駐在しているのだといった。 食卓を囲みながら、誰もがゲバラについて一言も触れないのが不思議だった。私が ...

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ニッケイ俳壇(839)=富重久子 選

『セラード』はおもに幹の曲がったまばらな灌木とイネ科植物を主とする低木をまじえた草原。(1991年8月出版 農業総合雑誌アグロナッセンテ57号より)

   サンパウロ         串間いつえ 身に入むや故人となりし事知らず【「身に入む」は、秋も深まって寒さが身に入むと言うことと、また身内に深く感じ主観のこもった意味あいもある「深秋の季題」である。 最近俳誌の中に名前のない人がいて、それとなく病気であることを聞いてはいたが、その人の病死を聞かされてびっくりしている様子である ...

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〃救世主〃李首相が来伯=リオ―リマ大陸鉄道構想も=(下)=牛肉輸出解禁や大型融資の手土産

協定を取り交わすジウマ大統領と李首相(Marcelo Camargo/Agência Brasil)

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北米=日系社会の盛衰映す羅府新報=語り継ぎ、記録する責任

羅府新報社内の新聞保管庫で、過去の紙面を前に語る現社長の駒井幹夫=ロサンゼルス(撮影・水野陽介、共同)

 【共同】1941年12月7日深夜。米西海岸ロサンゼルスの邦字紙「羅府新報」の駒井豊策社長が長い一日を終えて帰宅すると、米連邦捜査局(FBI)の捜査官たちが待ち受けていた。日曜日だったこの日未明(米太平洋時間)、ハワイの真珠湾を日本軍が奇襲攻撃した。羅府新報は通常の紙面を印刷した後「日本爆撃機五十機 今朝布哇を爆撃」の見出しが躍 ...

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パナマを越えて=本間剛夫=84

「生活費は必ず送金する。決して心配しないでくれ。子供たちも成長すれば、それぞれの方向に進むだろう。それまでは親の勤めだから、きっと送金する。おれ一人で行かせてくれ」 私は家内の納得につとめる傍ら秘かに旅券の手続きを終えて、伊原氏と会合を重ねていた。伊原氏はゲバラの活動の成否はともかく、私がブラジル行きを希望しているのを知って、リ ...

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パナマを越えて=本間剛夫=83

 私はためらいながら、「そのことなら、ゲバラと会っています」とエスタニスラウ杜の会談のもようを話すと、大使は「そうだったのか」と大きく頷いた。 私には三人の子がいた。一人は中学、二人はまだ小学生だった。すぐにも快諾の返事をしたかったが咄嗟のことで即断できなかった。心は焦った。大使のいうように、私は日本で生涯を終える気持ちは若いこ ...

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