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山本喜誉司 関連記事

大耳小耳

ニッケイ新聞 2012年7月7日付け  先月、荒國誠宗家の指導を受けたブラジル國誠流詩吟会の作本登実子会長は「ほとんど初心者だから、一番大事な基礎の発生練習法を教えてもらって感謝感激」と大喜び。荒宗家も「皆さん熱心に講習を受けて下さった。9月の大会(ロサンゼルス)でお会いするのが楽しみ。私が来た甲斐があったと言えるくらい上達して ...

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山本喜誉司と護憲革命=家族が語るコロニア秘史=(3)=ヅットラ大統領との奇縁

ニッケイ新聞 2012年7月6日付け  1930年3月、長女・謡子が腸チブスで亡くなったことが、山本に永住を決意させる一因となった。「父は最初、農場経営のために一時滞在のつもりで来た」と坦はいう。山本はブラジル人のポ語教師をつけてすぐにペラペラになり、全伯有数の専門機関だったカンピーナス農事研究所の学者や幹部と親交を深め、ブラジ ...

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山本喜誉司と護憲革命=家族が語るコロニア秘史=(2)=銃雨の中で日伯旗立てる

ニッケイ新聞 2012年7月5日付け  東山農場を挟んで両軍が対峙したその時——。 【9月27日=本部に據(よ)れる(サンパウロ州軍)一隊午後9時退却、本部の前方1キロメートルにある牧草地Anhumas No.1高地に據(よ)る。ここに本部は全く両軍の間に介在す。本部広場にはブラジル並びに日本国旗を掲げ中立を表示す。(中略)連邦 ...

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山本喜誉司と護憲革命=家族が語るコロニア秘史=(1)=東山挟んで撃ち合いに

ニッケイ新聞 2012年7月4日付け  「今回語ったことの多くは、家族しか知らなかったことです」。2時間半にわたる取材の最後に、山本喜誉司(1892—1963、東京)の二男のカルロス坦(たん、88、北京生まれ)はそう付け加えた。ブラジル国家の背骨を作ったといわれるヴァルガス政権初期に起きた、ブラジル史最大の市民戦・護憲革命から数 ...

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山本喜誉司賞=ブラジル社会にも門戸広げる=7月16日まで推薦受付

ニッケイ新聞 2012年4月19日付け  ブラジル日本文化福祉協会(木多喜八郎会長)が、ブラジル農業の更なる発展を目指し、同分野での功労者を表彰する『第42回山本喜誉司賞』の該当者の推薦を募集している。受付締め切り7月16日。  同賞選考委員会の近藤四郎委員長、山添源二委員、中島エドゥアルド文協事務局長が案内のため来社した。   ...

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第41回山本喜誉司賞=農業人生に夢と誇り持ち=興梠、竹原、中隈3氏に

ニッケイ新聞 2011年12月2日付け  農業分野の貢献者に与えられる山本喜誉司賞(近藤四郎選考委員長)の『第41回受賞式典』が先月25日午後7時から、リベルダーデ区の文協ビル貴賓室で執り行われた。今回の受賞者は興梠太平氏(76、宮崎)、竹原祐貞氏(72、同)、中隈ジョージ氏(71、二世)の三氏。今回2つ以上の団体の推薦を受けた ...

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大耳小耳

ニッケイ新聞 2011年12月2日付け  またも日系人が殺害された——。スザノ福博村の強盗殺人、マイリンケの店子の逆怨みによる南青協隊員刺殺、モジの日系姉妹、そして今回はサンパウロ市内ヴィラカロンのパステラリア親子だ。ブラジルでは銃による殺人事件が1日100件起きているという。日系人の割合からすればおかしくないわけだが、これだけ ...

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山本喜誉司賞=興梠、中隈、竹原3氏へ=授賞式は文協で25日

ニッケイ新聞 2011年11月18日付け  農業分野への貢献者をたたえる山本喜誉司賞(ブラジル日本文化福祉協会主催)の第41回受賞者3人が決定した。  25日午後7時からリベルダーデ区の文協ビル貴賓室(Rua Sao Joaquim, 381)で授賞式が行われる。  同賞選考委員会の近藤四郎委員長によれば、今年度複数の団体から推 ...

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【祝 福博村入植80周年】親子相伝の植木作り=石橋家3代目の一也さん

ニッケイ新聞 2011年10月22日付け  「祖父(石橋初雄)が日本から持ち帰ったモミジなどの植木を、父(石橋聖哉=1929〜2008)が大事に育てた。その木を私(石橋ジョン一也)の代で枯らすわけにはいかない。私の代は大丈夫です」と、一也さんは祖父父子3代相伝の家業継承を宣言する。  石橋初雄さんは1903年熊本県下益城郡(しも ...

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世界市民的な移民女性=平田美津子という生き方=第4回=カトリックが結ぶ愛=400年経て結実するもの

ニッケイ新聞 2011年10月20日付け  福岡県大刀洗町で、長女ヘレナと長男久幸(ひさゆき)の二子が生まれた。戦後、外務省から父ら3人に戻らないかと声がかかったが、父の兄は戦争中に亡くなり、父の弟だけが復帰し、オランダ大使を最後に退任した。  1951年、まず平田がブラジルに戻った。「先に自分が帰って、仕事を見つける。それから ...

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