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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第66回

ニッケイ新聞 2013年5月3日

「何、お飲みになります」
「オールド8を頼むよ」
「わかりました」
 オールド8はブラジル国産のウィスキーで、口当たりも日本人好みで、どこにいっても小宮はこのウィスキーを飲んでいた。その晩は客もそれほど入らなかったせいか、叫子はずっと小宮のテーブルに着いていた。アルコールが進み、小宮は何故ブラジルに移住してきたのか、自分の生い立ちや部落差別についてすべて叫子に聞いてもらいたいと思った。叫子ならすべてを理解してくれるに違いない。そう思うとあの忌まわしい出来事が、喉に刺さった小骨を咳とともに吐き出すように簡単に口に上った。
「部落差別って、そんなものがあるなんて私知らなかった。肌が黒いからって差別されるのは、なんとなくわかる気もするけど、同じ顔つきの人間を差別するなんて、日本人は本当に差別が好きなのね。そして愚か」
「でもそんなこともうどうでもいいんだ。今はこうしてサンパウロで暮らしているし、君に出会うことでもできた」
「私も小宮さんと知り合えてうれしいわ。ブラジルに乾杯って気分よ」
「ビバ、ブラジル」
 大声を出して乾杯をした。ボトルはいつの間にか空になっていた。小宮は閉店までトパーズで飲み続け、店を出たのは空が明るくなり始めた頃だった。
「小宮さん、外で待っていてくれる。私も店を出るわ」
 トパーズのすぐ横にはミニョコン(ミミズ)と呼ばれる高架道路が走っている。その下では週二回、フェイラ(青空市場)が立つ。この近辺に住む人達の食料を供給するフェイラで、野菜、肉、魚にいたるまでありとあらゆる食料を売っている。買い物に行く客がカヒーニョ(買い物用カート)を引きながらフェイラの方に向かって歩いていた。
「お待ちどうさま」
 叫子が出てきた。
「小宮さん、おなか、空かない」
「空いている」
「フェイラに行ってみない」
「いいよ」
 二人はミニョコンの下を歩いた。道の両側にライセンスを持っている業者が台を置いて野菜や果物を並べて売っている。業者のほとんどは日系人だ。ブラジルには野菜を食う習慣はなかった。野菜を食べる習慣を定着させたのは日本移民だった。生産したものを販売業者に頼らず、自分で販売する日系人も少なくない。
 フェイラにはライセンスを持っていないものもいる。彼らは歩きながら、あるいはフェイラの入り口で買い物籠やTシャツ、ピメンタ(胡椒)などを売っていた。ココヤシの実を割って中の白い果肉をスプーンで掻きだして売っている者もいる。ココヤシの甘い果肉は菓子を作る時によく用いられる。彼らは警察に目を付けられた時、すぐに逃げられるように小物ばかりを売っていた。
 叫子は入り口で買い物籠を買った。朝早いせいか客はまだそれほどいない。フェイランテ(市場業者)もトラックから野菜を台の上に並べている最中だ。
「セニョーラ、新鮮なトマトどうですか。畑から収穫したばかりだよ」
 叫子は小宮の方を見た。二人の視線が絡み合った。叫子は一瞬恥ずかしそうな顔をしてブラジル人の夫婦がそうするように、小宮と腕を組んだ。
「私のこと、奥さんだって……」
「俺たち、夫婦に見えるのかな」
 叫子はうれしそうだった。
「このトマト、安くなるの」
「セニョーラ、フェイラはまだ始まったばかりだよ、安くするわけにはいかないよ」
 フェイラに並ぶ品物は早朝は値引きはしない。フェイラが始まったばかりの頃に買い物に来るのは経済的に裕福な層だ。ブラジル人は品物を手に取って確かめてから買っていく。


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