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越境する日本文化 野球(4)=近代を持ち込んだ「野球移民」=完全試合投手も来伯

3月8日(土)

 マウンドまで三十九歩。全身に広がる震えをこらえながら、一六五センチの小柄な背番号一は、ダイヤモンド中央の小山へと歩みを進めた。
 〈あと、三人……〉
 握りしめた白球に汗が染み込んだ。八回終わりまで全ての打者に安打を許さないばかりか、一つの四死球も与えていなかった。
 一九六一年七月二十一日、夏の甲子園を目指す神奈川大会二回戦。高校野球では珍しいナイターとなった第三試合の行われた川崎球場内は、異様な雰囲気に包まれていた。
 無理もない。戦後、県内では初の完全試合まであとわずか。誰もが偉大な歴史の目撃者になりたかった。 浅野高校のエース、名取満臣は最後の夏に賭けていた。初対戦の茅ケ崎高校を、得意のカーブとドロップを武器に沈黙させていた。
 九回二死、走者なし。二十七人目の打者が名取の前にゴロを転がすと、球場内には「ワーッ」という大歓声が沸き起こった。
 投球数百三球、奪三振八。横浜高校で甲子園春夏連覇を達成した松坂大輔(現西武ライオンズ)でも成し得なかった偉業が、自らの人生を変えることに名取自身気付いていなかった。
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 〈狭い国土にあきたりない野球好きな青年を夢の多いブラジルに送り込みたい〉
 同年六月、産経新聞紙面に一風変わった一文が掲載された。
 俗に言う「野球移民」を求めた募集記事だ。モジ・ダス・クルーゼス市にあった豊和工業が、野球選手を技術移民として呼び寄せることでチームを強化し、その宣伝効果を求め企画した。五八年に早稲田大学野球部がブラジルに遠征した縁で、同大学OBで、東京六大学野球解説者としても知られた故河合君次氏を中心に十人の選手を選抜した。
 「ブラジルの野球チームが選手を募集しているぞ」
 「夏の大会で忙しいから適当に申し込んどいて」
 同紙を読んだ父からの誘いを名取は真に受けてはいなかった。
 高校最後の大会を直前に控えた球児にとって、ブラジルは余りにも遠すぎた。
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 翌年三月三十日、移住者二百十二人を乗せた大阪商船「あるぜんちな丸」が横浜港大桟橋から出港した。
 雨の中、見送られる同船の甲板には、号泣しながら級友に別れを告げる名取の姿もあった。
 「あの完全試合が合格の決め手だったんですよ」と現在、サンパウロ市内で宝石類販売業を営む名取は、渡伯のきっかけをそう語る。
 船内には名取ら七人の野球移民が、新世界への夢を膨らませていた。
 出港直後こそ、寂しさのあまり涙した十八歳は、すぐに〈中南米一の投手になる〉と気分一新。航海途中、体を鈍らさないようにと名取らはユニフォーム姿で甲板に出て、投球練習や素振りを欠かさなかった。
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 当初、四年間の契約で来伯した名取らは、平日の午前中は同社に勤務し、午後から練習をするいわば「ノンプロ」的な存在だった。
 甲子園経験者らを集めた豊和の野球は、移民の娯楽に過ぎなかった従来のコロニア野球とは一線を画していた。来伯直後の全伯野球選手権では、地区予選十五戦に圧勝。大会決勝こそアサイーに二対三で敗れたが、その洗練された野球は注目を集めた。同大会を振り返る六二年八月のサンパウロ新聞は〈正しい野球みせた新来選手群〉と、豊和の野球を高く評価している。 一方、名取らもコロニア野球を認めていた。「当時もいい選手はたくさんいた。ただ、仕事の合間の土日しか野球を出来ず、練習不足で故障する人が多かった」と名取。印象に残るのは、決勝でも対戦したアサイーだ。背丈こそ低いが、日ごろの鍬作業で鍛えられた打者が放つ打球は鋭く、特に鍬を扱う影響か、ほとんどの打者が左打ちをこなせたという。「左投げの私には辛かった」と笑う名取。
 野球移民は六四年の同選手権で優勝後、家族らの希望などで六七年ごろには、名取を除いた九人全員がブラジルを後にした。
 自らと逆の道のりを辿る現在のブラジルの若い選手について、名取は嬉しげにこう振り返る。
 「僕らが五年で結局、一度しか優勝できなかったことが、ここまでブラジルが進歩する可能性を物語っていた」
       (敬称略)
(つづく、下薗昌記記者)

■越境する日本文化 野球(1)=日本で花咲く「ヤキュウ」=日系人トリオが甲子園に

■越境する日本文化 野球(2)=ブラジルの起源は米国=日系人の娯楽として普及

■越境する日本文化 野球(3)=「新来」移民も参加=全伯チームで早稲田に善戦

■越境する日本文化 野球(4)=近代を持ち込んだ「野球移民」=完全試合投手も来伯

■越境する日本文化 野球(5)=日伯交流の陰にサンパウロ州球連=底辺拡大めざす新会長

■越境する日本文化 野球(6)=世代を超える「野球」=非日系への普及も進む

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