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国境を越える経営哲学=盛和塾ブラジル10周年(1)=最悪の経済状態に始動=迷いながら50人で開塾

8月27日(水)

 京セラを創業した稲盛和夫社長(現名誉会長)が、一九八二年に京都の若手経営者に経営指南する講演をしたことからはじまった盛和塾。現在では五十五塾に増え、約三千百人の経営者が参加し切磋琢磨する。九三年に生まれた盛和塾ブラジルは、日本的経営哲学をブラジルに適応させるために、商習慣や考え方、言葉を超えた試行錯誤を繰り返してきた。移民であることが日本の塾とは異なる同塾ブラジルの真骨頂だ。この十年間の貴重な経験は、日系意識を後継世代に受け継がせたいと考えている全ての人にとっても、役に立つ何かを示してくれるかもしれない。

 全ては一通の手紙から始まった――。九二年の寒い冬の夜、日本学生海外移住連盟OBの中井成夫さん(六一、神戸出身)は強い酒をあおりながら、「どうしたら楽に自殺できるだろう」とぼんやり考えていた。ものうげに週刊誌『アエラ』をめくっていると、ある頁に目が止まった。
 三十畳ぐらいの日本間に、大勢の経営者風の人々が膝をつき合わせるようにして座り、中心にすわる男性の話を真剣に聞き入っている写真だった。
 その記事を読み「これだ! 俺はこの人を探し求めていたのだ」と叫んだ。ハイパーインフレ、やられたらやり返すというブラジル商法を実践していたために引き起こされた顧客との裁判沙汰、労働者とのいざこざで自分を見失っていた中井さんは、鞄の中にピストルを入れて歩くようになっていた。そんな荒んだ心に光が差し込んだ。
 「稲盛和夫って誰?」と思いながら、「盛和塾ブラジル開塾のお願い」という主旨の手紙を書き、祈るような気持ちでアエラ編集部宛てに送った。そして「ブラジルの工場に行った時で良ければ、お手伝いします」という稲盛塾長からの返信が届いた。
 この手紙をきっかけに同OB会が開塾へ動き出したが、まだ内部で葛藤があった。「こんな不況のインフレの時に、原理原則にのっとって税金を払うだの、利他の心だの冗談じゃない。生き延びるのに一生懸命なのに、何を言うか」という意見もかなり強かった。
 ブラジル北東部アラゴアス州マセイオ市在住の谷広海さん(六三、宮崎県出身)は盛和塾ブラジル開塾の中心人物だ。「自分たちの会社が大きくなれなかったのは、実は利他の心や原理原則がなかったからじゃないか、勉強する価値はある」と仲間を説得した。
 最悪の経済状態に後押しされ、怒涛のごとく日本へ向かうデカセギ・ブーム真只中の一九九三年二月――。盛和塾ブラジルが稲盛和夫塾長(現京セラ名誉会長)を迎えて、初の海外塾として五十人でスタートした。
 「盛和塾と出会わなかったら、日本に戻っていた。すごく感謝している」。入塾後の九六年七月に、建築会社SANGEOを仲間三人と創業した松永賢一さん(五三、静岡県富士宮市出身)は移民としての複雑な気持ちを思い起こしながら、穏やかに笑う。
 入塾以来十年で、以前の六店から三十店への劇的な美容店チェーン拡大を実現した蒼鳳(SOHO)の飯島秀昭さん(五二、埼玉県出身)は「盛和塾に出遭わなかったら、殺されているかもしれないし、のたれ死んでしたかもしれない。今の自分の原点は盛和塾です」と証言する。
 毎月、月例会を開き、お互いの経営内容を検討し、塾長の経営の十二カ条について話合いをして理解を深めた。代表世話役になった谷さんは、毎月マセイオ市から欠かさず参加。九六年には盛和塾パラナがロンドリーナに、九八年には盛和塾クリチーバも作られた。
    (深沢正雪記者)

■国境を越える経営哲学=盛和塾ブラジル10周年(1)=最悪の経済状態に始動=迷いながら50人で開塾

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