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平成の自由渡航者たち=運命の出会いに翻ろうされて(5)=大学卒業し通訳翻訳業=日系妻との二人三脚人生

9月10日(水)

 在伯通算十六年になる神戸保さん(三九、愛知県出身)は毎日、働きづくめで休む暇がない。「子どもができると、何も考えずに働いている。好きなこと言っている場合じゃないよね」。昼間は翻訳、通訳業で飛び回り、夜はリベルダーデ区トマス・ゴンザーガ街のカラオケ食堂「ポルケー・シン」を切り盛りしている。「最近、日本から来た職人がつくる本格派ラーメンを始めたんですよ」と、宣伝も忘れない。
 保さんは名古屋市の私立大学でスペイン語を専攻。八五年、四回生になった時、「就職したくない。どこか留学したい」と、日本ブラジル交流協会の一員としてブラジル行きを決めた。出発までの半年間、当時の県費留学生(八五年度)のめぐみさん(三九)にポルトガル語を習い、そして、恋愛に発展した。
 八六年四月から一年間、保さんはリオの日系企業で研修、その間にめぐみさんと婚約した。「必ず、ブラジルに戻る。それか、連れに来る」。研修を終え、大学を卒業後、幸運なことに、交流協会事務局員としてブラジル赴任が決定。八八年、再来伯した。
 保さんは八九年一月七日、めぐみさんと結婚した。「僕らの結婚式は大変だったんだから」と苦笑する。この日は昭和天皇が崩御された日。愛知県人会での披露宴を自粛するかどうか、仲人と会議を開いた。「乾杯、万歳なしで、しめやかに行なわれた」という。
 保さんは交流協会で働きながら、九一年、サンジョアキン駅近くの予備校に通い始めた。「ミトコンドリアとかさ、日本語で習ったことをポ語で覚え直したんだよ」。その翌年、FAAP広告学科に合格した。在学中は日本の進出企業や米国系広告代理店で働いた。
 大学を五年かけて卒業後、保さんは九八年、めぐみさんと二人三脚で翻訳・通訳業を始めた。続いて九九年十月、脱サラした元駐在員ら『四・五人』の共同出資でカラオケ食堂をスタート、「副業だけど、全力投球しているよ」と鼻息を荒げる。
 保さんは仕事柄、日本人や日系人と接することが多い。「日系社会を特に意識したことはないけど、移民の人たちに対して、本当にありがたいと思う。日本人だということで無条件に信用され、スタートの時点で一歩先に出ている感じ」。逆に苦労したことといえば、「ブラジル人は、日本人みたいに自分の感情を制御しないから、振り回されることがあった。でも、今は自分も『素』のままで生きているからOK」という。
 普段は新聞も読む暇がないという保さんだが、「家では父ちゃん一色」と親バカぶりを発揮する。二歳と八月に生まれたばかりの男の子二人を相手に、笑顔が絶えない。「教えてもないのに、鼻くそほじくって僕の服にくっつけるんだよ」。上の子は、NHKの相撲とトラックのミニカーに首ったけとか。二人とも、通訳で知り合った日系助産婦に自然分娩でとりあげてもらったという。
 保さんはブラジルでの生活について、「成り行きで来たけど、でも、これが運命なら最高」と語る。「ブラジルだからこそ、通訳を通していろんな人と知り合える。日本にいたら、平均的な普通のサラリーマンやっていただろうな」。
 現在、交流協会理事としても活躍する保さん。「協会の仕事はこれからもずっと続けていきたい」と抱負を語った。日本からブラジルへ、若い力が注入され、新しい発展につながるように――。保さんは願ってやまない。
(門脇さおり記者)

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