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平成の自由渡航者たち=運命の出会いに翻ろうされて(7)=「美術史に残る作品を」=夢を見させてくれる場所

9月12日(金)

 「サンパウロでは、たくさんの夢を見させてもらっている」と話す吉沢太さん(三九、埼玉県出身)は現代造形作家。大学でテキスタイルデザイン(織物)を学んだ後、ファイバーアート(繊維美術)の世界にのめり込んだ。日本で美術運送などのアルバイトをしながら、作品を制作していた太さんに、九四年六月、ある転機が訪れた。
 世界三大美術展として名高い『サンパウロ・ビエンナーレ』に出展した現代美術作家、三梨伸(のぶお)氏の紹介で、サンパウロ市フランセーゼス街の画廊「ガレリア・デコ」の田口鈴木秀子主宰と知り合った。同年九月、太さんは田口主宰を頼って初来伯、翌月、現地制作した三十点を集めた『吉沢太展』で、ブラジル美術界にデビューした。
 太さんはその後、日本とブラジルを行ったり来たりした。九五年、日系二世の美術家、沖中ロベルト氏が組織した日伯修好百周年記念展(USP現代美術館)が開かれた。日系人十四人、日本人十四人の芸術家が集結した同展で、日本側の調整役として奔走した太さん。日伯両国を往復するなか、「日本よりブラジルの方が性に合っているな」と思い始めた。
 「活動の拠点をサンパウロにしよう」――。九七年、太さんは決めた。
 はじめに、サンパウロ市内にある邦字雑誌のデザインの手伝いをしていたが、「もっと美術に近いことをしたい」と、一年後、同誌を飛び出した。独立を果たし、画廊の駐車場などを借りて作品の制作をスタート。二〇〇〇年には、二回目の個展をガレリア・デコで開催、ほかにも、今年七月、リベイロン・プレットであった日系人芸術家たちとのグループ展にも出展するなど、精力的に活動してきた。
 「日本人よりもサンパウロの人たちの方が、作品を見た時の反応が大きい」と太さん。「日本は作家活動と生活が両立できないが、ブラジルは作家として生きていける。夢を見続けていられる」と実感している。
 カナダ、アメリカ、イタリアでも展覧会を開いた太さんがブラジルに決めた理由は、もう一つある。「ブラジルには日系社会という基礎があり、ほかの国よりも日本人に対する信頼が厚い」。ブラジルでは故・間部学氏など日系美術家はもとより、日本人美術家の認知度も高いという。「大きな苦労なくブラジルにいられるのは、先に来た人たちが積み重ねたものの上に立っているから。本当に感謝している」。
 そんな太さんは、日系社会が抱えるデカセギ現象を危惧している。「日系の若い人たちがブラジルを出て、なかには日本に定着する人もいる。今後の日系人の層が薄くなっていくようで残念な気がする」という。
 数多くのデカセギ労働者に逆流して、ブラジルに辿り着いた太さん。一~二年に一度は、日本での展覧会参加を兼ねて、埼玉の実家に帰省するという。「家族は、まさか僕がブラジルに住むとは思っていなかったみたいですからね。呆れてというか、諦めているみたいですよ」と苦笑いする。
 現在、日系美術家のアシスタントの傍ら、自身の制作活動に没頭している。素材には皮革や木材など、ブラジルならではのものと、鏡を使用。作品のテーマを尋ねると、「内側と外側を映し出す。鏡で人間が気の付かないものを表したい」と芸術家の顔に戻った。
 「美術史の中に、一つでも残るような作品を作りたい」。多くのチャンスを与えてくれたここサンパウロで、太さんの夢は限りなく続く。
(門脇さおり記者)

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