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五輪代表候補育てた二世=宗像マルコス監督=渋谷幕張高校サッカー部=日本で悲喜こもごもの体験=連載(上)=サンパウロFCとUSP

12月24日(水)

 日系三世の選手を日本でオリンピック代表候補に育て上げた二世の監督、宗像マルコス望さん(四四)。愛弟子、田中マルクス闘莉王(トゥーリオ)は十月に帰化するや、たちまちアテネ五輪候補に招集された。マルコスさんの指導は厳しい―。サッカー部創部当時、不良生徒も多かった千葉県の渋谷幕張高校を、現在の名門に育て上げ、日本サッカー界に〃ブラジル魂〃を吹き込んできた。現在では日系選手の相談相手を任じるマルコスさん自身が、実は日本社会適応に苦しんだ。日本サッカー界を支える二世ならではの、悲喜こもごもの経験と熱い思いを聞いた。

 マルコスさんは一九五九年二月、サンパウロ市内で生まれた。プロテスタントの牧師として来伯した父、基さんと母、光子さんの間に生まれた日系二世だ。
 「本当に神様のような存在でしたよ。凄いとしか表現しようがない」と少年のような笑顔を見せるマルコスさん。
 憧れは当時すでに二度のワールドカップを制覇していたブラジル代表のエース、ペレーだった。六六年のイングランド大会、史上最強と呼ばれる七〇年メキシコ大会をテレビで見て、サッカーへの想いを膨らませた毎日だった。
 朝から晩までボールを蹴り続けたマルコスさんは自他共に認めるサッカー狂い。幼少の頃から、週末には三、四チームを掛け持ちしながらカンポを駆けめぐった。根っからのサンチスタ(サントスサポーター)だったマルコスさんは、ペレーがリオデジャネイロのマラカナン競技場でヴァスコ・ダ・ガマを相手に挙げた通算千ゴールの記念すべき場面も目撃している。
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 そんなマルコスさんに名門サンパウロFCの下部組織が目を付けたのは、十三歳の時だった。以来、プロを夢見ながらボールを蹴り続けるが、決してサッカーだけに没頭した訳ではない。現実的な目標は、体育の教師になることだった。
 サンパウロFCと学校との二足の草鞋を履きながら、見事にサンパウロ大学(USP)に合格する。
 「ただ、プロ契約が間近になる段階では、勉強との両立は厳しいと思った」
 体育教師になる道を選択したマルコスさんは、学業に励みながら今度は二世連合会(AUSP)所属のクラブ「モシダージ」でアマチュアとしてのサッカーを楽しんでいた。
 「日本でサッカーをやらないか」――マルコスさんの技術に目を付けた日本リーグの東洋工業(現サンフレッチェ広島)が日本行きの誘いを持ちかけてきた。当時USPで二年を終えたばかりのマルコスさんは「親が日本人だし、まあ二、三年やってみるか」と休学を決意。父の出身地へ渡ることを決心する。
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 「本当に日本人ばかりなんだなあ」
 高校では黒人や白人、韓国人などと机を並べたマルコスさんは成田空港に降り立った時、黄色人種がひしめき合う日本に対して驚きを隠せなかった。同時にその画一性を見て「この国なら、教育水準が高いのも当然だ」と感心もしていた。
 ただ、グラウンドの中には失望という言葉しか見当たらなかった。
 来日前から「下手くそ」「W杯に出られない国」というイメージを持っていた日本サッカーだが、東洋工業では愕然とさせられる毎日が続いた。
 「ボールを持ったら怒られるし、走ってばかりのサッカー。最悪なのは相手もなしに砂利の上でスライディングの練習をすること」
 たまりかねたマルコスさんは、外国籍第一号として日本に渡ったヤンマーのネルソン吉村さんに相談の電話もかけている。
 東洋工業で日本リーグには出場したが、ブラジル仕込みの個人技を十分に披露する機会を得ないまま、マルコスさんはチームを去る決心をする。
 ブラジルで見いだしてくれた監督の小城得達さんがチームを去ったことも、マルコスには痛手だった。
 しかし、小城さんが紹介してくれた一人の指導者が、マルコスさんの人生を大きく変えていく。
(つづく、下薗昌記記者)

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