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70年前の自分と再会=吉雄さん=日本祭り写真展示で

2005年7月21日(木)

 「あっ、私だ」。吉雄ミユキさん(90、サンパウロ市)は思わず声を上げた。七十年前の自分との再会だった。
 十七日まで開催された県連日本祭りの会場。百周年協会のブースに展示された古い写真に若き日の吉雄さんと家族の姿があった。
 写真は、戦前の日本移民の開拓風景を紹介した写真の中にあった。笠戸丸のサントス入港、耕地開墾の様子など数枚の写真のうちの一枚。一九三二年ごろ、バストスのコーヒー園で撮られたものだ。左端が十七歳ごろのミユキさん。前列に母と妹、祖母が写り、後列に祖父、父の姿がある。父の名は溝部幾太。戦後の勝ち負け抗争で最初に犠牲となった人物だ。
 ミユキさんが九歳の時に一家は渡伯し、モジアナ線へ入植。その後ノロエステ線に移り、十二歳の時にバストスに来た。
 日本の敗戦後、バストス産業組合で専務理事をしていた溝部氏は、勝ち組の言葉を信じて日本帰国の用意をする周囲の人たちに辞めるよう説得していたという。
 四六年三月七日、来客を送り出した溝部氏は裏庭の便所を出たところを背後から銃撃、殺害された。「私はそのころ結婚して家にはいませんでしたけどね」とミユキさんは振り返る。庭の桜の樹のそばに倒れこんだ父を、母のコトさんが発見した。
 家族の歴史がコロニアのそれに重なる。「こんな写真どこにあったんでしょう。私はもっていません」と語るミユキさん。友人と会場を訪れ、この写真に出会った。「昨日娘が来たんですけどね。気づかなかったみたい」。
 九十歳のミユキさんは今もかくしゃくと。「昨日もゴルフに行ったそうですよ」、傍らで友人が笑う。
 ごくありふれた日本移民の風景写真。しかし、分かる人には特別な意味をもつ。協会はミユキさんに写真を送る約束をした。
 写真に写る七十年前の自分。今は亡き祖父母、父母との再会だった。「思わず涙が出ました」、ミユキさんはそう言って目をうるませた。

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