ホーム | 連載 | 2006年 | 25年=交流協会生コロニアと共に | 25年=交流協会生コロニアと共に=歴史編3=連載(3)=ブラジルの青年を「招日」=事務局設置,藤村氏が次長に

25年=交流協会生コロニアと共に=歴史編3=連載(3)=ブラジルの青年を「招日」=事務局設置,藤村氏が次長に

2006年2月21日(火)

 日本からの派遣ばかりではなく、ブラジルの若者を対象とした交流も進めた。一九七八年にはサンパウロ州知事に対しユースサッカーチームの訪日を要請。ジョゼ・ピント州スポーツ局長の一行二十五人が訪日した。日本国内で高校生、社会人など五チームと親善試合を開催。テレビで放映されるなど華やかなスタートを切った。
 八四年からはブラジルから数名の大学生を招聘して日本を研修する「ブラジル青年代表訪日研修」を開始し、現在まで続いている。
 しかし、当時は事務局もまだなく、肝心の派伯留学研修制度の構想は進まず、理想は頓挫しかねない形勢だった。
 そのような時、以前から交通遺児救済運動を手伝っていた藤村修現理事長(現衆議院議員)が、玉井会長とともにブラジルを訪れ、この地に魅了された。七九年に協会事務局次長に就任。翌年、藤村理事長はブラジル中を視察、各地で留学研修制度の計画を相談した。
 玉井会長はこのときの様子を機関誌『日伯交流』の中でこう語っている。「苦難が続く。斉藤広志先生も私も藤村君も手弁当に近かった。生まれ出ずる悩みと思って耐えた。ブラジルのあの灼熱の太陽の下で、日本の若者が心の底から微笑む日を夢見て」。
     ◎
 斉藤さんが亡くなったのは一九八三年。六十四歳だった。これについては当時の邦字紙でも大きく取り上げられた。「父は厳しい人だったのよ」と、娘の篠原文子さんが言うように、研修生一人ひとりの毎月のレポートを丁寧に添削していた。ほとんどのレポートが真っ赤になったというほど。そればかりではなく、学生らの悩みにも乗るなどして信頼を集めていた。研修生たちにとっては「心の支え」になっていたという。
 一九一九年、斉藤さんは宮崎県に生まれた。三四年に両親と「あふりか丸」で着伯。コーヒー園労働に従事しながらエメボイ農学校に入学した。その後、月刊「よみもの」社からパウリスタ新聞に入社して三代目の編集長を務めた。その当時は日系社会が「負け組み」「勝ち組」に分かれて鋭く対立し、テロが続発する中で斉藤さんは「負け組み」の論陣を張った。
 日本移民七十周年式典に向けては、「移民史料館」建設の中心となって活躍した。梅棹忠夫博士の教えを請い、建設後は初代館長に就任。式典当日は、皇太子ご夫妻とガイゼル大統領を案内する姿が、宇宙中継で日本の茶の間に放映された。
 他界する直前に、やらなければならなかった大きな仕事があった。日本とブラジルの青少年を交流させて「日伯のかけ橋」を育てることだ。『移民七十年史』の編纂を終えてからはもっぱら「青年交流」に情熱を注いだ。
 「一年の計には穀を、十年の計には樹を、百年の計には人を植えよ」。この遺志を継承すべく、日伯交流の歴史をつないできた人々の尽力。これが現在にいたるまでの「二十五年間」を築き上げたのだ。(つづく、南部サヤカ記者)

■25年=交流協会生=コロニアと共に=歴史編1=連載(1)=日伯の架け橋になる若者達を=斎藤、玉井氏ら構想「巨木に育てよう」

■25年=交流協会生コロニアと共に=歴史編2=連載(2)=学問の師との出会い=3期生森さん=帰国後4ヵ月で〃帰伯〃

image_print

こちらの記事もどうぞ