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25年=交流協会生コロニアと共に=OB編2=連載(7)=すでに人生に組込まれた「軸」=神戸さん「日本は息苦しかった」

2006年3月2日(木)

 第六期生として渡伯し、以来、交流協会の活動に尽力してきた神戸保さん(41、愛知県出身)。研修終了後、一旦帰国。その後、すぐにブラジルに戻り事務局を手伝い始めた。「二十四歳だったでしょ。次来る研修生らと飲んでただけよ。楽しかった」と笑うが、「協会にだんだんはまっていった。仲間もできたしね」と現在までブラジル日本交流協会の事業を支えてきた。
 研修生時代は、リオデジャネイロの南米安田保険にいた。日本の大学ではスペイン語を専攻。「とにかくラテンアメリカに行きたかった」。六期生の時はまだ一般公募はなく、推薦制度だったため『ブラジル経済の南北格差』という本を読み、レポートを提出。「ブラジルにもポルトガル語にもあんまり興味なかったんだけどね。何とか教授に推薦状を書いてもらった」。
 再来伯の動機は「婚約」。現在の奥さんは研修中に知り合った二世のめぐみさんだ。「もう、研修生の時に婚約してたからどう戻ってこようか考えていた」。当時の会長、故・相場真一さんが高齢だったこともあり、ちょうど交流協会事務局には人手が足りなかったので引き受けた。
 午前中は、当時の事務局長、故・江沢晋二さん(元サンパウロ人文科学研究所)を手伝いながら、午後は相場元会長が役員だった南米銀行で働いた。その間、サンジョアキン街付近の予備校に通い、ポルトガル語を勉強。翌年、大学の広告学科に合格し、日本の進出企業や米国系広告代理店に勤務した。
 その後、めぐみさんとともに通訳・翻訳業を開始。友達とはカラオケ食堂「ポルケ・シン」を開業した。現在は二児の父親。自身も子どものように四歳と二歳の息子をあやす姿が印象的だ。
     ◎
 去年九月から今年一月にかけての四ヵ月間。日本で全国各地のOB約二百人と会った。理由の一つに、去年六月に流れた「派遣事業中止」の報に対するいきさつを説明することも含まれる。東京、大阪、名古屋など九ヵ所で集まった。「新宿で呼びかけた時は、一期から二十四期までのOBが来たよ」。
 「ニッパク」の集まりがある、そう一声かければ実にたくさんのOBらが集合する。「みんな、ブラジルの話がしたくて仕方ないんじゃないの。懐かしいんだよ。ブラジルのエキスを吸いに来る」。
 福岡県久留米市で声をかけた時のこと。電話をかけたら相手は神戸さんのことを忘れていた。「会ったら思い出してたよ。何だかブラジルのこと、話せてすっごい嬉しそうだったよ」。時間が経ち、日本社会にもまれていくにつれて、「ブラジルでの感覚」が風化されていく。
 日本に行って「がっかりした」と嘆く神戸さん。「余裕のなさが漂っていて息苦しかったよ」と話す。「そう言えばってブラジルでの感覚を思い出すOBらが多い。せっかくの体験。子どもにも語っていって欲しい」。
 取材中も仕事関係の電話が鳴り止まない神戸さん。忙しい中でも交流協会のことを考え、関わってきた。交流協会は彼の人生の中に組み込まれた「軸の一つ」になっているようだ。
(つづく、南部サヤカ記者)

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