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25年=交流協会生コロニアと共に=歴史編4=連載(4)=博識のアドバイザー=田尻鉄也さん=深く刻まれた記憶

2006年2月22日(水)

 相次ぐ大黒柱の死―。斉藤広志さんが亡くなった翌年、永野重雄会長も他界した。その後は、故・武田豊・新日本製鉄社長が会長に就任。斉藤さんに代わっては、ブラジル日本文化協会の会長を務めた故・相場真一さんがブラジル側会長となった。
 斉藤さんの死後は、ブラジル社会史,農業史の研究家で、サンパウロ人文科学研究所理事を務めていた故・田尻鉄也さん(享年六十七歳、宮崎県出身)が、十年以上にわたって交流協会研修生のアドバイザーとなった。毎年九月、研修生が一堂に集まり行われる「中間研修」にも参加。一人ひとりの研修発表に対するコメントをした。
 「僕が引き込んだようなもんだよ」。高野書店の高野泰久店主は言う。同氏が交流協会に関わるようになった五期生の時代から田尻さんも手伝うようになった。「博識だし、学生からの信頼を集めていた」。研修前半は高野書店で、後半は田尻さんが編集顧問を務めた『アグロナッセンテ誌』で研修生を何度か引き受けた。
 両氏は一九六二年、産業開発青年隊のパラナ訓練所で出会った。「いつも交流協会の活動を支えていた。何でそこまで入れ込んだのか……。会議などにも参加してくれていた。斉藤先生の存在も大きいでしょう。思想に共鳴していたし、これからは若い者の世代だから頑張ってもらいたいと言っていた」と話し、「やはり齊藤先生にはかなわない。彼を越せないともよく漏らしていた」と高野さんは振り返る。
 田尻さんは一九九八年、心臓麻痺のため他界。五四年、パウリスタ新聞社の最初の呼び寄せとして来伯した。その後は、日本からの進出企業の現地会社設立などに参加。ブラジル社会史、農業史の専門家として著述業に専念した。
 同年、相場会長も亡くなった。その年の六月には、研修生OB・OG約四百五十人(当時)の交流親睦会「日伯かけ橋の会」が中心となって、「相場真一先生、田尻鉄也先生をしのぶ会」を東京で開催した。
 研修生たちにとって、両氏はかけがえのない師だったようだ。「面白い人だったよ。説教くさくないし。知らないことはないんじゃないかというような感じで尊敬できる人だった」とOBらは口をそろえて言う。固い話ばかりではなく気さくな会話もし、今でも研修生たちの記憶にひときわ深く刻み込まれている人物だ。
 「しのぶ会」には、玉井義臣会長、藤村修理事長も出席。会場正面にかかげられた、日伯両国旗の前に両氏の遺影が飾られ、一同が献杯した。
 交流協会発展は、コロニアの人々の尽力がなければ実現しなかった。交流協会は、想像以上に日系社会と密接な関係にあった。
(つづく、南部サヤカ記者)

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■25年=交流協会生コロニアと共に=歴史編3=連載(3)=ブラジルの青年を「招日」=事務局設置,藤村氏が次長に

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