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25年=交流協会生コロニアと共に=歴史編5=連載(5)=非日系受入れ団体探す=篠原さん=北伯、南伯へも広げる

2006年2月23日(木)

 あくまで日系社会ではなく、ブラジルとの「交流」にこだわりたい―。故・斉藤広志さんの娘婿、篠原ベルナルドさん(61、二世)。一九八九年から六年間にわたってブラジル事務局長を務めた。八九年は、外務省から「社団法人」として認められた年でもある。それと同時に藤村修次長が専務理事に就任。研修生の数も増え、九一年には、玉井会長の「石にかじりついてでも二百五十人をブラジルに送る」という目標も達成された。
 「当時はあまりブラジルにOBもいなかったし、ほとんど一人で研修生の面倒を見ていた」と言う篠原さん。協会が設立される以前から斉藤さんや玉井会長と交流があった。藤村専務理事や、当時会長を務めていた相場真一さんに頼まれる形で、事務局運営に携わった。
 「十五期生までしか見ていないからわからないけど、今までやってきたのは交流ではなく、日本からの一方通行だと思っていた」。日系団体ばかりではなく、非日系団体への受け入れ先を探すことに力を入れた。また、サンパウロだけではなく、ベレン、マナウス、レシフェ、リオデジャネイロ、ジョインビレなど地方への派遣も進めた。
 ブラジル到着合宿、中間研修、帰国合宿も従来通りだと、日系関係のホテルで行われていた。「でも、私の時からはブリガデイロにあった日系ではないホテルでしました」。事務局も、「交流協会ということで、リベルダーデに縛られてはいけない。日系から離れなければならない」と、イタイン・ビビ区に移動した。
 篠原さん自身も日本での研修経験がある。「行くまで自分が何であるかわからなかった。日本に行って、日本人と触れ合うことではじめて外国人として扱われた。すごく貴重な経験をしたと思っています」。そのため、非日系人の派遣の大切さも強調。「二十七州の州政府と日本の各県との交流システムができればいいと思う」と希望を話す。
 これに関心を示した故・野村丈吾元下院議員も協会に関わるようになった。「九〇年には、交通遺児をコーロル大統領に会わせてくれた。嬉しかったよ」。帰国報告会などにも参加、相談役にもなった。「結局、非日系人を日本へ派遣する事業は実現できていないけど、今のうちにやってほしい。理想をもっと高くしないと」。
 妻の文子さんも協会を手伝った。「父(斉藤広志)は、この事業に対して個人のポケットマネーでやっていた」と思い出し、「人数が増えてきてからは、いろいろ旅行で動き回るから心配で寝られなかった。一人ひとりに目が行き届かないし。着いた当時は道がわからないだけで、電話してきて大変だった」。
 「ブラジルは研修の現場」。ブラジル社会との交流に尽力した篠原さん。「ブラジルに来ればプラスになるんじゃないかと思う学生もいるが、それは交流とはかけ離れている。一年間の経験を活かして欲しい」。(つづく、南部サヤカ記者)

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