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コロニアと歩み続けた60年=パウリスタ野球連盟=過去振り返り、将来へ=創立60周年式典に400人

2006年11月18日付け

 コロニアと歩んだ六十年――。今年創立六十周年を迎えたパウリスタ野球連盟(沢里オリビオ栄志会長)が十一日、サンパウロ市の客家センターで記念式典を開催した。州内各地から四百人以上の関係者が参集。野球がコロニアと歩んだ六十年の歳月を振り返り、さらなる躍進を誓った。
 午後八時半にはじまった式典にはブラジル野球連盟の大塚ジョルジ会長のほか、連邦下議に当選した飯星ワルテル氏、ヘラルド・コレイアサンパウロ市スポーツ局長など多数の来賓が出席。ルーラ大統領やレンボサンパウロ州知事、カサビサンパウロ市長のほか、ジョゼ・セーラ次期サンパウロ州知事からもメッセージが寄せられた。
 連盟〃還暦〃の節目に、州内各地から四百人以上の野球関係者が参集、チームごとにテーブルを囲んだ。
 一九四六年十月二十八日にコチア、ジガンテ、サンパウロFCの三チームによりサンパウロ市サント・アマーロ街のYMCAで創設されたパウリスタ野球連盟。六十年の歩みはまた、日本移民のスポーツが「ブラジルの野球」へと移り変わってきた道のりでもある。
 現在同連盟に加盟するチームは約五十チーム。近年では、日本のプロ野球広島、楽天で活躍し先日読売巨人軍の二軍コーチ補佐に就任した玉木エンリッケ重雄氏らをはじめ日米のプロ球界にも多くの人材を輩出している。
 会場正面には、各地で野球振興に務めてきた功労者の姿。あいさつに立った沢里会長は「野球は家族のようなもの」と先人たちの功労を称えるとともに、「結果は二番目」と、野球が子供たちの人格形成に果たしてきた役割を強調した。さらに仲間との親睦の象徴としてキャッチボールを挙げ、「キャッチボールは人と人との絆を結ぶ第一歩。だから楽しく笑顔でやりましょう」と日本語で紹介すると、会場から大きな拍手が上がった。
 来賓から各地の野球・ソフトボールの功労者三十八人へ顕彰プレートを贈呈。渡伯後七十四年にわたって野球と関わり球連の技術部長などを務めた高柳清さんが代表して謝辞。「野球を通じて選手やファンの人たちなど、たくさんのアミーゴができた。ブラジルに来てからの全財産です」と述べ「これからも一人でも多くの野球ファンを作ってほしい」と球連の前途にエールを送った。
 記念のボーロカットの後、乾杯。食事を囲んで懇談した。
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 「うれしいですよ」と話すのは、連盟創立に立会い、十八年間事務局長を務めた納富義人さん(83、二世)。「(戦後すぐの)当時は日本人が集まれなかった。集まって野球をするために連盟を作ったんですよ」と振り返る。
 この日の出席者は多くが日系人。戦前から野球を続けてきた七十代、八十代の人たちも多い。中には、二十数年ぶりの懐かしい顔に名前が出てこず、胸の名札で確認する人も。
 ポンペイアのジャクチンガ植民地出身の国井精さん(70、二世)によれば、戦後、パウリスタ線だけで二十以上のチームがあったという。「当時はミットも手作り。三キロ、四キロ歩いて練習に行って、また歩いて帰ってくる。本当に好きだったんですね」。
 国井さんは戦後、サンパウロ市ジャグアレで、勉強のためサンパウロに出てきていた学生を集めてチームを作っていたという。「当時の学生はみな寮暮らしで親が心配するでしょう。それでチームを作りました。五、六十人はいましたよ」。当時国井さんは三十歳代。今でも数人が訪れるという。「多くは今どこにいるかわかりませんけど、みんな真面目にがんばっているみたいです。それでいいと思いますよ」と話していた。
 古希、喜寿を過ぎなお野球と関わり続ける人たちもいる。
 現在八十二歳の菅生俊雄さん(秋田県)。球連の審判部長などを務め、今も週三回、サンパウロ大学医学部チームを教えている。「球の握り方や投げ方も知らないで入ってくる子もいますけど、頭がいいからね、すぐ覚えますよ」。野球をきっかけに日本語を学ぶ人もいるという。「ついつい三十年が経った」と笑う。
 四十年間球連役員をつとめた桑原邦雄さん(77、二世)は連盟引退後、サンベルナルド市で少年たちに野球を教える。もう十四年になる。「日系で野球チームに入ってくる子は少なくなりましたね」。十二歳までの「四割以上」が非日系の子供たちだという。「でも日系がやらなくなっても野球というスポーツは続いていきますから」。
 喜寿を過ぎてなお、背筋をしゃんと伸ばした往年の野球少年たち。パーティーは夜半過ぎまで続き、昔話に花を咲かせる場面があちこちで見られた。

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