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〃世紀の旅行家〃=岡田芳太郎の謎=連載(中)=新聞が伝える孤高の死=レジストロ邦人の温情

2007年5月18日付け

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 パウリスタ新聞七九年九月二十八日付けに、セイロン島(現スリランカ)から茶種をレジストロに持ち込んだ岡本寅蔵氏が、岡田との邂逅についての一文を寄せている。
 移民を迎えるため、サントスに赴いた岡本氏は立寄った潮旅館の玄関先で岡田と会っている。
―旅の支度もいかめしく、背には背のうを背負い、足にはゲートルを巻いての珍しい旅姿―
 「世界の珍しい記事を朝日新聞に送り、その原稿料で旅を続けている」と自己紹介した岡田に対し、岡本氏はレジストロでの再会を約した。
 約十日後、ジュキアの土井ホテルで熱病に罹っていた岡田を同伴し、小松旅館まで連れてきたという知人の話から、早速駆けつけるが、岡田はすでに事切れていた。
 「とにかく怖かったことだけは覚えている」。
 当時七歳だった小松エミアさんは、父敬一郎さんから七十四年前に聞いた記憶を辿る――午後八時ごろ、岡本氏の知人に付き添われて小松旅館に着いた岡田は、スープを飲んだ後就寝した。翌朝、ドアを叩いても出てこないので中に入ったところ、亡くなっており、蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。「心臓発作ではないか」と皆が話していた――。
 三三年二月七日、享年五十七歳。
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 岡田の葬儀を終えた小松氏が日伯新聞社を訪問した記事が三三年四月二十九日付けに掲載されている。
 ―去二月七日レヂストロの小松旅館で客死した世界徒歩旅行家岡田芳太郎氏の遺骸は同植民地同胞によって手厚く葬られたが其後小松氏は跡始末の為サントスサンパウロに二回も足を運んで奔走此程ようやく片付いた由――
 記事によれば、岡田は日英西三国語よる遺言状を携えていた。
 一、致命の災難叉は頓死などにより遺言をなすべき余裕なき時の用意に書き記す
 一、着用の下股引きの内側に縫込みある米貨紙幣〇〇弗は余の死骸取方づけの費用(即ち葬式費並に墓場料)として〇〇弗、残余〇〇弗は立会の牧師或は僧侶の謝礼に使用されたし、かかる場合に遭遇したるとき色々手数を煩はしたる当人(人種を問はず)へ対し些か謝恩の印までに其当時携帯したる金員並に物品は悉皆贈与するものなり、但し各国にて苦心蒐集したる各種の金貨のみは東京上野博物館に寄贈せらるべきこと
 一、余の旅行券並に戸籍謄本及び総ての書類は之の地駐拶箚帝国大公使館叉は領事館迄お届けあらんことを乞ふ
 世界徒歩旅行家岡田芳太郎
   ▽  ▽  ▼   前出の岡本氏の投稿記事によれば、「ブラジル最初の日本人植民地に最後辿りついたのは不幸中の幸い」とレジストロの邦人たちは岡田をねんごろに弔った。
 「若しこの死者が壮健であったなら、植民の苦境を代弁して、日本政府に交渉してくれたかも知れぬ」と墓碑の建立を思い立ち、時の内山岩太郎総領事に訴え、四コント五百ミルレースが下付されたが、それでは足りず、〃貧者の一灯〃を寄せ集めた。
 「立派なと迄はゆかなくても、墓らしき墓を築き、故人も満足に眠られたことと思う」。そして盆には花を供えていたという。
 五四年には「墓がかたむいた為、すっかり組み立て替え」た、と記事は続き、老いのため、歩行がかなわなくなったことから、墓参ができないことを嘆く。
 「サントスの玄関先で貰い受けた岡田の写真を眺めては、冥福を祈り、老骨に涙している」(つづく)
    (堀江剛史記者)

〃世紀の旅行家〃=岡田芳太郎の謎=連載(上)=笠戸丸以前にブラジルへ=世界を歩き、レジストロに死す

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